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<第二回>ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』を読む

 第二回は、第二章(意識的諸状態の多様性について——持続の観念)を読み進めたいと思います。

 第二章に入る前に、第一章の振り返りの意も込めて、本章で用いられる概念について少し説明を加えておきましょう(第一章から出てきている概念ではあるのですが、わかりやすさの観点から第一章時点では触れませんでした)。とはいっても、第一章で執拗に繰り返された「質」と「量」の話が分かっていれば特に難しいことはありません。

①強度(intensité)と大きさ(grandeur)…それぞれ「質」と「量」に関係しています。前者の「強度」は「質」的な大きさであり、量や空間を介してとらえることのできない「大きさ」です。後者の「大きさ」は「量」的なものであり、数や空間を介してとらえられるものです。

②空間(espace)と延長(extensif)…これらはいずれも「質」ではなく「量」です。空間において対象を考えることは、その対象が「量」を持つことと同義です。第二章は、「数」が空間的であることの証明から出発しています。「数=空間的」を証明することで、「数=量」であることから、「量=空間的」であるという論証の仕方をしていきます。なお、この「空間」の広がりを「延長」といっています。

③(外的)時間(temps)と(内的)持続(durée)…空間・延長と同様に「量」に対応するのが「時間」であり、一方「質」に対応するのが「持続」です。この詳細は第二章を読み進める中で明らかになっていきます。「(外的)時間」は、空間によって「量」化してしまっている時間、我々が習慣的に数えている時間のことであり、「持続」は、非空間的な我々の内的世界にある意識そのものです。本来「(内的)持続」であるはずの時間が、習慣的に空間的にとらえられ、「(外的)時間」へと転化されてしまっている、というのがベルクソンの主張です。

 

 ということで、第一章で残された課題の一つ、「質」である感情が「多様的」であるとはどういうことなのか、多様的とは数的=量的ではないのか、という疑問に答えていきます。ここでのベルクソンの論証の仕方は非常に綿密です。つまり、多様性には二種類の多様性があって、一方は確かに数的=量的だけれども、他方は質的なものなのだ、と主張し、感情の多様性は後者に属すると結論付けます。さて、まずは前者の「数的」な多様性についてです。

 

第二章(意識的諸状態の多様性について——持続の観念)

数的多様性と空間

 我々は「数」という観念を「空間的に」とらえている、と言います。羊を数えることを考えてみましょう。我々は羊一匹一匹の差異を捨象して、これらを互いに同一なものとみなし「8匹」という形で一つの集合体を認識します。このとき、頭の中に思い浮かべるのは羊の具体的な姿であって、ある空間の中で「8匹」という数字が認識されています。そしてこの「8」という数字は一つの単位として、「羊」という文脈をはなれ、また別の動物(ライオンでもウサギでも)においても同様に「8匹」というように数えられるようになります。このとき、「数」は、「8匹の羊」という一つの集合体を単一 な存在としてとらえているのです。

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(「8匹」の一つの集合体)

一方で、8匹の羊は一体化して一つのものになるわけではありません。羊たちは互いに区別することができ、空間内で異なる場所を占めているが故に「8匹」なのであるということは大前提です。このとき、「8匹の羊」は、1匹1匹それぞれ区別されたものとして、個別の1匹1匹の羊多数の部分の集合として、とらえられています。そしてこのときの羊の意識への現れ方も、1匹1匹を「区別」して並置するゆえ空間的です。

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(「1匹」の羊が8匹)

ベルクソンは、この二つの数概念の特徴を合わせて、数は「一と多の統合」だと言っていますが、このどちらにおいても、数は空間的に理解されていることが確認できたと思います。

 しかし、次のような場合はどうでしょう。例えば「2+6=8」を計算する場合です。一見すると、この時数字は羊などの具体的イメージを離れ、抽象化・概念化されているので、我々はこうした数字に関わるときには空間的に思考していないのではないか、という疑問が出てきます。しかし、ベルクソンは、この「8」という抽象化された記号も、遡ってみれば具体的イメージの土台の上に存在している、と言います。実際に、幼少期の頃、我々は数を数えるときに必ず具体的なイメージ(例えばボール)を描いていたのではないでしょうか。次第にボールが一つの点に抽象化され、その後に抽象的な数の観念が残ったものが「8」という数字なのです。では、我々は抽象化された「8」という数字を純粋に非空間的に思い描くことができるか、というと、ベルクソンはやはりそうではなく、この抽象化された「8」もまた空間的にしか思考できない、と言います。つまり、数を考えるときに我々は1、2、3…という各瞬間を継続的に想起しておく必要があり、このときに空間的に展開されたイメージを利用せざるを得ない、というのです。我々は数を数えることを時間的行為だと勘違いしていますが、時間はある一瞬一瞬を知覚するだけであって、それらの瞬間の総和を考えようとすると、一瞬一瞬を空間内のある一点に固定する必要があるのです。

 さて、以上、「数=空間的」であることを証明してきました。同時に、上で少し触れたように、数という観念には二種類の単位があることも明らかになりました。つまり、①不可分の単位としての数(­=「8匹の羊」という一つの集合体を単一な存在としてとらえる見方)と、②細分化されるものとしての数(=「8匹の羊」の1匹1匹をそれぞれ区別されたものとしてとらえる見方)です。この二つの観念で言われるときの「単位」の意味するところが異なっているのではないか、という点にベルクソンは注目し、両者における「単位」の意味を考察していきます。

 ①における「単位」とは、「羊8匹」という集合です。つまり、この単位は「8匹」という多様体を内包し「統合」する単位です。一方、②における「単位」とは、「1匹」という羊を個別に区別するための単位です。この単位は①とは異なり、多様体を「統合」するようなものではありません。もはやそれ以上還元できない基礎的・構成的な単位(物質で言うところの原子*1のイメージ)なのです。これを受け、ベルクソンは、A:①のような決定的な単位とB:②のような仮説的単位の二種類の単位があるといいます。では、決定的・仮説的とはそれぞれどういう意味でしょうか。ベルクソンはAの決定的な単位についてはほとんど説明を加えずにBの仮説的単位についての詳細な説明に入っていきます。

 上で②は「もはやそれ以上還元できない基礎的・構成的な単位」だ、と言いました。しかし、一般にこのように思われているけれども、実はそんなことはなく、「仮説的」なんだ、というのがベルクソンの主張です。どういうことでしょうか。「8匹」の羊の例で考えてみましょう。このとき、一般に「1匹」を基礎的単位にしているけれども、別にこの基礎的単位は「1匹」でなくともよいのだ、というのがベルクソンの主張です。我々は「1匹」という単位を不可分なものとみなし、これ以外の単位などありえない、と考えてしまいがちですが、いったんその単位への執着をやめて俯瞰的に見てみれば、この単位が仮説的・便宜的なものにすぎないことが分かると思います。もちろん「3」は1という単位で「1+1+1」と考えることができますが、それだけではなく、「0.5+0.5+0.5+0.5+0.5+0.5」でも、「1.5+1.5」でも、「0.1+0.1+0.1+0.1+0.1+…」でも、「仮説的単位」は何だって良いのです。逆に言うと、我々は、無数に考えられる「仮説的単位」の中から一つを選び出しこれを不可分な単位とすることで、数を数えているのです。

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 したがって、ある数を観念する際、「ある仮説的単位を決定する」→「この単位を絶対的だとみなし、離散的に考える」→「ある集合としての数が形成される」というプロセスを歩むわけですが、この時、前2つのプロセスにおいてはある単位が絶対的ですが、3つ目のプロセスにおいて単位は自由に考えられるようになっています。「思考の対象となっているときの単位」と「その後に物象化された単位」は別物であり、前者において単位は還元不可能・不可分なものであり、後者において単位は無限に分割不可能なものになっているのです。

 さて、ここでベルクソンは「主観的」「客観的」の区別の話をします*2。「主観的なもの」とは「個人しか知りえない感情」です。この「主観的なもの」が「客観的なもの」となったときのことを考えてみましょう。例えば、「主観的な感情」である「昨日友人と遊びに行った時に思った感情」が、日記に「○○をして楽しかった」と書いたり、ラインで「△△が面白かった」と送ったりすることで他の人にも伝わる「客観的なもの」と化すとします。こうして「主観的感情」が「客観的感情」に翻訳されたとき、感情はもう別のものになっているのだ、とベルクソンはいうのです。複雑で明瞭に表現できないような複合的な主観的感情は明瞭でないゆえ客体化することができません(要は、言葉で言い尽くせない感情があるだろう、ということです)。これがもし「はっきりと弁別して知覚され」、客体化されるとなると、それはもう別のものに代わっているということです(言い尽くせない感情を「エモい」と言ってみたところで、この「エモい」という感情は本来の感情を完全に言いつくしたものではありません)。このような「主観的なもの」、「客観的なもの」をベルクソンはそれぞれ「分割不可能で潜在可能的」、「顕在現実的な現働的な統覚(=意識化された知覚)」と表現しています。

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 同じことが数についてもいえるのだ、という流れになることは予想できるでしょう。数を観念するプロセスは、「与えられた空間における様々な部分のどこか一点を定め注意を次第に集中させていき(=主観的)」、こうして上のように切り取られた部分を「他の部分と結合する、そしてまた解体する(=客観的)」過程なのです。主観的にある単位を設定し数を数え、その単位の集合は客観的なものとして提示される、ということです。このプロセスが「空間」的に行われていることは明らかでしょう。ゆえに、ベルクソンは以下のように結論付けます。「空間とは、それをもって精神が数を構成する材料であり、精神が数を配置する場(竹内訳p83)」であると。つまり、やっとここで、「数=空間的」であることが証明されたのです。

 

数的多様性と質的多様性

 さて、「数=空間的」であることはわかりましたが、そもそも本章でベルクソンが言いたかったことは、数的多様性と数的「ではない」多様性があるということでした。したがって、以下、この二種類の多様性についての考察に入っていきます。

 ここまで確認したことは、物や単位を数えるとき、空間的に考えているということでした。このように空間的に数えられた物や単位の集合を、以下「数的多様性」と呼ぶことにしましょう。一方、心的な感情的状態、表象されえない対象に向かうときは、これらが空間内に存在しない以上、事情が異なる、というのです。このような非空間的な感情の集合を、「数的多様性」に対し「質的多様性」と呼ぶことにしましょう。この「質的多様性」は「数的多様性」とは異なり、数えることができないものだと言います。詳しく見ていきましょう。

 「質的多様性」の対象となるのは、第一章で確認してきた「心的感情」です。このことは、感情や感覚は量ではない、という第一章の結論からスムーズに導けます。感情や感覚は量ではないから数えることもできず、その意味で「質的」だ、ということです。しかし、本来「質的」な感情が「量的」と誤認されていて、「心的感情」をそれらの感覚の原因となった外的空間にあるものに依拠して認識している、ということです。この論証のやり方は第一章とほとんど同じです。

ベルクソンは二つの例を挙げています。一つ目の例は、ある人が街路を歩く足音を聞いたときです。この時、我々は、「カツ、カツ、カツと靴のかかとが鳴らす音を一つ一つ聞いているのだから数的に足音を認識しているのだ」と思われるかもしれませんが、こう思っているとき、すでに我々は質と量を誤認し、原因と結果を取り違えてしまっているのです。自分が聞いたときに感じる質的な感情を、外的な人が街路を歩く動作を想像して勝手に数化しているのです。このとき我々は「街路を歩く動作を想像」する、つまり空間的に考えてしまっています。二つ目の例は、教会で鳴らされる鐘の音を聞いているときです。教会といわれてもピンとこない人も多いでしょうから、馴染みがある例=除夜の鐘を聞いているとき、で考えてみましょう。鐘がゴーン、ゴーンと一つ一つ鳴っているのを聞いて、我々は「あぁ、鐘が1,2、3…回鳴っているなぁ」と感じるわけですが、こう思っているとき、すでに我々はやはり質と量を誤認し、原因と結果を取り違えてしまっているのです。ゴーンゴーンと鳴っているに違いない鐘の動きを想像し、繰り返される音を勝手に数化して、感情を空間的に考えている。与えられた断続的な鐘の音の一つ一つを相互に引き離し、間に「空白」を挟んで分離しているのです。意識の深層にある「感覚や感情の渾然とした多様性」はこのようにして空間化=数化され、翻訳されてしまっているのです。

 さて、ここまで特に感情や感覚に関する多様性を考えてきました。本章の前半で見てきた数に関する議論と合わせれば、多様性には①物質的対象の多様性と②意識的事象の多様性があると言えるでしょう。そして、①はすべて数化でき、②は⑴基本的には数的様相を呈さないが、⑵ある場合には数的様相を呈することになる、と分類でき、②⑵の場合は必ず記号的表象・空間を介在する、というようにまとめられます。というより、②に関しては、ベルクソン的には本来⑴なんだけれど⑵のように翻訳されてしまった形で表象されている、といった方が適切でしょう。

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 さらに、別の観点から「数的多様性」と「質的多様性」の違いを見ていきましょう。キーワードは「不可入性」です。竹内訳はこの語を訳注で以下のように説明しています。「不可入性(impenetrabilite)は、ある物体が占めている空間は、他の物体によって同時に占めることはできないという、かなり大雑把な物質を規定する概念語。そういう意味で、常識的レベルに位置する物質概念に過ぎない。(竹内訳:x)」ということで、特に難しく考える必要はなく、常識的な考え=別の物質が空間的に同じ場所に存在することはあり得ない、という理解で問題ありません。さて、物質の特性として不可入性を認めるとすると、数の観念が空間においてとらえられるということを再確認できます。つまり、物質がそれぞれ別の空間を占めるがゆえに数を数えることができ、また、数を数えることができるがゆえに複数の物質は互いに別に並立している——したがって、不可入性を是とすることは「数と空間という二つの概念が表裏一体である」ことを是とすることとなるのです。

 対して、「質的多様性」はどうでしょう。②のような互いにまじりあい浸透しあっている感情や想念などは「不可入性」を持っていません。とすれば、これを数えることなど一体どうしてできるのでしょうか。にもかかわらず、②⑵のようにこれを我々は数化してしまっています。これを数えるときに我々はそれらを空間内で異なった場所を占める「等質な単位」として表象し、それらを異なった場所を占有している「相互不可入な単位」へと転化させてしまっているのです。「意識内的事象(互いに浸透しあっている不可入性を持たない分割不可能な感情など)」が不可入なものとして分割され記号によって相互不可能なものとして表象されることで、「本来の」意識内的事象は別のものに変えられてしまっています。第一章で論じられたような、「質的」であった内的感情が「数的」なものとして表象されている、という事態がここでも起こってしまっているのです。

 さて、ベルクソンはここでついに「時間」について言及します。つまり、時間についても同じようなことが言えるのではないか、というのです。我々は時間を等質的で一列に並置されている空間的で数的な多様性であると考えています。1分、2分、3分、あるいは2018年、2019年、2020年といったような数直線上の点のイメージ、あるいは、1分とは等質的な(=質的な変化のない)1秒が60回繰り返されることである、という感覚を持っています。しかし、本来「時間」はそうではなく、不可入性を持たない分割不可能な質的なものなのではないでしょうか。1分、2分、3分という時間のイメージは「本来の質的な時間」が空間化・数化された後の、いわば翻訳されてしまった後の姿なのではないか、というのです。時間は果たして空間的なのか——この問いに答えるために、ベルクソンは、「空間」と「時間」についての分析を進めていきます。

 

次回に続きます。

 

*1:正確には、原子は、もはや究極の分割不可能な単位ではなく、あくまで元素が元素としての性質を保ちつづけることができる限りにおいての最小単位であるので、「素粒子」という言葉の方が適切かもしれませんが…

*2:p98の7行目以降。ここは段落を分けた方が読みやすいような気がします。「実際、注意を促しておくと~」以下です。