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<第三回>ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』を読む

 さて、第三回も前回に引き続いて第二章を読み進めていきます。

 第二回では、二つの多様体——数的多様体と質的多様体——についての議論を追っていきました。前回の最後で提起されていたのは、「空間」と「時間」について、数的/質的の区別に照らして論じると、どのようなことが言えるのか、ということでした。ベルクソンは、「空間」についてはカントの議論を下敷きにしながら、一方で「時間」については「持続」という観点から「時間」をめぐるカント来の議論を乗り越えようと、論を進めます。

 

空間と等質的なもの

 まずは空間についてです。すでに所々で「等質性」という言葉が出てきていましたが、ベルクソンは「空間」を「等質性」(質的に同一であるということ)という観点から分析していきます。以下、「空間」=「等質的」を証明してきます。

 そもそも「空間」とは何でしょうか。空間をめぐる議論は大きく分けて二つの考え方で発展してきたといいます。第一の考え方は、空間とは物理的質の一つの様相で、「物質が知覚されるとともに知覚される」(=空間というものが客観的に実在する)という立場であり、第二の考え方は、空間とは物体の物理的質とは関係なく存在していると考える立場です。つまり、空間は客観的に実在するものではなく、我々の認識能力に備わっているものであるという考えです。この第二の立場はカントが定式化したもので、『純粋理性批判』の冒頭で論じられた所謂「第一アンチノミー」の話です。カントは、空間(と時間)*1は客観に固有の性質として存在せず、主観の性質として存在していると言い、空間というものが客観的に、対象物の性質として備わっているのではなく、主観的なものである、と主張しました。空間を感性(主観)の「ア・プリオリ」な形式であると考えるカントにベルクソンは同意し、空間によって様々な同時的な感覚を相互に区別することが可能になっていると論じるのです。その意味で、空間とは、様々な意識内的事象を相互に区別することを可能にする「等質的な場」です。空間に二つの異なる感情が置かれたとき、我々はそれを例えば左の痛みと右の痛みというように、直ちに空間的違いとして解釈します*2。二つの異なる感情は本来的には質的差異を有していますが、それを我々は直ちに空間中の「位置」の違いであるとみなすのです。我々は「等質的な場」の明瞭な概念を有しており、「質的に異なる」(=質的異質性)ものとして与えられた感情を「位置的に異なる(質的には同じ)」ものだ(=外的空間の等質性)と認知しているのです。

 この「等質的な空間」という観念は知的生物の進化に伴って明瞭化されてきたのではないか、というベルクソンは言います。実際、動物の空間把握の仕方についてみると、人間とは異なり「等質的」ではありません。自然界においては説明不可能な質的な差異があふれており、そう考えると「等質的」という「質のない空間」を知覚し概念的に把握する能力は人間に特殊なものであると言えるでしょう。ここで垣間見える生物進化というテーマは、ご存じの通り、のちに『創造的進化』で中心的に論じられることとなります。

 さて、以上より我々は、異なった次元にある二つの実在性を知っていると言うことができるでしょう。一つは「感覚が捉える質的存在の異質性を身にまとう実在」、もう一つは「空間という等質性を身にまとう実在」です。この後者の概念——人間知性によって明確に概念化されたその実在概念——こそが物事を区別したり数えたりしたりすることを可能にしてくれているのです。

 ここまでで、「空間」=「等質的」が明らかになりました。では、「時間」についてはどうでしょう。一般に、「時間」も空間と同じように「等質的」だ、といわれています。人々に言わせれば、等質存在は、同時に存在するものであれば空間、継起するものであれば時間、と二つの形式を持っているというように整理されるのです。しかし、このように時間を考えたその瞬間に、内的「質」としての時間が「等質」なものに翻訳されてしまっています。そこでベルクソンは、「一つの等質場として概念化されている時間というものは、純粋意識の領域に空間概念がこっそりと入り込んだ結果の、いわば雑種概念ではないか(p97)」というのです。一言に時間といっても、上で見てきたように、「純粋意識の領域における内的質的な時間」(内的持続)と「空間概念が入り込み等質なものに翻訳された(=されてしまった)量的な時間」(外的時間)があるのではないか、という主張はベルクソンの時間論の非常に重要なポイントです。以下、前者の質的・非空間的時間を「持続」、後者の量的・空間的時間を「時間」と表記します。

 

等質的時間と具体的持続

 では、この持続と時間がどのように異なるのか、詳細に検討していきましょう。持続のイメージはさまざまな意識状態が一つに溶け合って有機的に統合しているイメージです。ベルクソンは音楽の例を持ち出し、持続のイメージを説明します。我々は音楽を聴いている時、その一瞬一瞬、一音一音を個別なものとして切り取って聴いている訳ではありません。これまで聴いていた音と新しく聴こえる音は交わり合い、ここで交わりあった様々な音は相互に浸透し合って一つの集合体を作り上げます。このように、持続とは「多数の要素が相互に浸透しあい、一体となり、さまざまな要素同士の親密な有機的統合を獲得して、それぞれの要素がその有機的統合の全体を表現しながら、全体から区別されることなく、一つ一つが全体から孤立することなく存在する状態(竹内訳p99)」であると言います。ここにおいては、空間概念が入り込む余地は全くありません。

 にもかかわらず、我々は「時間を空間に投影し、内的持続を外的延長の中に表現している(p99)」——つまり、固定観念、馴染みのある概念に基づき、持続を空間的に捉えてしまっています。空間的な時間において、さまざまな意識状況は「浸透しあう」のではなく、「並置」されたものとして現前します。各要素は隣り合って並び立つものであり、前にあるものと後にあるものは同時に「並存」して知覚されるのです。ベルクソンは、この知覚のされ方を連続線、あるいは一つの連鎖の形、のイメージから説明します。つまり、一本の連続線において、線上の各点は相互に浸透することはなく、同時に並存しているのであると。一方で、持続においてはこのような一本線が想起されることはあり得ません。持続は「動的に次から次へと付加されてゆき、その全体が有機的に統合されてゆく」イメージであって、これまでの様々な感覚を並置し、それらを線のようにつなぎ合わせるという空間的なイメージとは全く異なるのです。

 時間と持続の違いについて、改めてまとめてみましょう。時間においては様々な感情一つ一つが独立なものとして並置させられ、並置させられた各要素は「一本線」を形成します。一方、持続においては様々な感情はそれぞれ溶け合いながら有機的に統合しており、継起する多数の楽音が「一つの旋律」を形成しているように、それぞれが混ざり合っているのです。

 

持続は計測可能か?

 以降、ここまで確認してきた持続と時間の違いを用いて、運動や力学の諸概念を分析していきます。繰り返しになりますが、持続=数的ではない=質的、時間=数的=空間的の図式が重要です。手始めにベルクソンは時計上で時間を計測する行為に言及します。

 時計上で時間を計測する=1~60秒と秒を数える際、我々はそれを継続的に1、2、3…と数えていくため、持続をも数的に数えられるのではないか、と考えてしまいがちです。ですが、こうして数え上げることで時を空間的に考え、各秒のイメージをいわば並置してしまっています。ですが持続とはそうではなく、1、2、3…と続く秒の全てが重なり合って形成される一つの有機的統合体=質的多様体です。この質的多様体は不可分であり、数や空間の概念と全く異なるものなのです。したがって、持続と時間の間には、重要な大きな違いが存在しているのです。

 同様に、振り子の例を考えても、持続と時間の決定的な違いが明らかとなります。振り子の規則的な揺れが我々を眠りに誘う場合を考えてみましょう。振り子の運動が3分繰り返され、あなたはそれをじっと見続け3分後に眠りに落ちてしまったと仮定しましょう。さて、このときあなたを眠りに誘った揺れは2分59秒時点での揺れでしょうか。それより前の揺れはあなたを眠りに誘わなかったのでしょうか。そうではなく、「それらの揺れが相互に結びつき…その全体が作り出す律動的統合体によって、われわれに作用した(竹内訳:p104)」のです。つまり、我々にとって振り子の揺れは、等質的な空間に展開されるものではなく、有機的に統合された持続として現れているということがわかるでしょう。

 このように、日常的に意識してはいないかもしれませんが、意識に注意深く問いかけてみれば、我々の意識には「持続」の感覚が確かに存在しているのです。にもかかわらず、我々は「常識」の要請に従って一つ一つの感覚を空間の中で展開してしまっている、というのはこれまで何度もベルクソンが繰り返してきたところです。

 とりあえず、意識の奥底に立ち帰れば、そこに持続が存在することは明らかとなりました。しかし、「持続」を本源的な純粋状態において思い描くことはとてつもなく困難だというのはベルクソンも認めています。我々は当たり前のように「時間」が物体同様外的に存在していると考えますし、「時間」は数量変数として、物理学や天文学の法則にも取り入れられています。実際、我々の日常生活において、時計の存在はあまりにも当たり前ですし、何時何分という数的な時間無しでは我々は社会生活を行うこともできないでしょう。

 

運動は計測可能か?

 さて、続いては「時計の文字盤」の例が提示されますが、ここでもやはりベルクソンの言いたいことは同じです。我々は、時計の文字盤の上を回っている針の動きを目で追って1、2、3…と秒数を数えていますが、上で見たようにこれは内的持続ではありません。1、2、3とそれぞれの秒を切り取って数え上げることは、ただいくつもの「同時性」を数えている(いくつもの瞬間があるだけ)にすぎないといいます。数えることでそれ以前の数・針の動きはすべて消えてしまい、「現在」の秒数と針の動きがただ一つあるだけとなってしまうのです。一方で、我々の意識の内奥では、意識の1、2、3秒それぞれの状態が有機的に統合され相互に浸透しあっています。これこそが持続であり、それ以前の数・針の動きと混ざり合ったものを「継続性」をもって表象するのです。

 ここから、我々には二つの異なる自我があることが分かります。第一の自我(外的自我)には「継起なき相互外在性」(過去と現在に継続性がなく、現在が過去と完全に切り離されている)が、第二の自我(内的自我)には「相互外在性なき自我」(現在と過去を並置することができ、両者は互いに切り離せない)があるとベルクソンは表現しています。

 この両者に関して、我々は外的空間に起きている事象にばかり気をとられてしまうので誤解をしてしまっているといいます。「相互外在性なき継起」において各瞬間は互いに異質で相互浸透していますが、その一つ一つの瞬間を取り上げれば外的空間の事象と対応させることができます。このように、内的な感情と外的事象を対応させることで内的空間の各瞬間は他の瞬間から引き離され、それらは等質空間で並置されるのです。こうして内的持続は等質場という偽りの形態(=空間的形態)をとるようになります。

 

 内的持続が見かけ上は等質空間と同類のものであるとされるのは、「運動」がそれを如実に表現していると考えられているため(=「内的持続」に対応する「運動」が空間的であるとみなされてしまうため)だと言います。しかし、運動もよく考えれば「等質空間」的というより「内的持続」的なのではないか、とベルクソンは問いかけます。

 我々は当たり前のように「運動=等質空間的」だと思っています。運動が空間を占めるものだという考え方は至極当然のことのように思えます。しかし、運動は等質的で分割可能なものだ(運動=空間的)、というとき、われわれが想定しているのは「運動の軌跡空間」であって、「運動そのもの」ではないのではないか、とベルクソンは主張します。

 ある運動する物質(=運動体)を考えてみましょう。確かに、この運動体が1、2、3秒後に「位置する場所」をそれぞれ空間的に考えることはできます。ですが、「運動そのもの」はどうでしょう。運動体が一つの位置から次の位置へと通過する「動きそのもの」は内的持続のうちにあることに気づかされるのではないでしょうか。「動きそのもの」は運動を観察するわれわれ意識主体にとってのみ存在するのです。「運動そのもの」は、「事物」ではなく一つの「進展」であって、一つの「心的プロセス」です。実際に「事物」が存在する位置は空間内のある一点でしかないですが、我々の意識が「事物」の連続的な地点の動きを統合している(=質的統合)のです。

 要するに、「運動が次々に取る位置」と「運動そのもの」を区別しなければならない、ということです。そして、前者は等質的な量であり、後者は我々の意識内でしか現実性を持たないのです。しかし、ここでもやはり、前者と後者の混同が見られると言います。運動そのものと運動が取る空間的位置を混合し、事物は分割できるが行為は分割できないことを忘れ、行為を運動が取る空間上の一点に配置し、その行為を固定してしまっているというのです。

 そして、エレア派の詭弁(=ゼノンのパラドックス)はこの混同から生まれたものであると指摘します。ここでベルクソンが取り上げるゼノンのパラドックスとは、いわゆる「アキレスと亀」のパラドックス*3のことです。アキレスの歩みという「行為」をその背後にある等質空間と同一視したために、ゼノンのパラドックスが生じてしまったのです。「アキレスの歩み」はそれ固有の性質を持つ行為であって、アキレスと亀の歩む一歩の幅は全く異なっているにもかかわらず、これを分割し、アキレスの歩みを亀の歩みを使って再構成しているのです。分割と再構成は「空間」にしか適応できないということを忘れ、「運動」を分割してしまっている——つまりアキレスの「運動」を「空間」的に処理したがゆえにゼノンは誤った結論を導いてしまったのです。

 

持続と同時性

 ゼノン同様、天文学や力学においても、時間や運動の質的要素を抹消し、時間からは持続を、運動からは動性を、取り除いてしまっています。ここでのキーワードは「同時性」です。力学は「持続」を「同時性」と捉えています。つまり、運動体のある一瞬における「位置」とその瞬間の心的状態を同一視するのです。したがって、力学においてある現象がt秒後に起きるということは、t秒後までに運動の位置とその瞬間における心的状態の「同時性」をt回記録することに他なりません。ここにおいて持続的な時間間隔は存在せず、継起的・連続的な運動という観念自体、力学にとって無用の長物なのです。

 

速度と同時性

 速度という概念においても、持続は存在せず、「空間と同時性」があるだけです。速度の計測において用いられる要素は、運動が始まる瞬間の空間的位置と、運動が終わった瞬間の空間的位置のみです。つまり、速度の計測において持続的、動的観点は考慮されていないのです。このことは、力学が方程式の操作に基づいていることからも裏付けられます。代数は常に完了した事態を数的に、瞬間を切り取る形で表現します。したがって、そこでは我々の意識に直接現前するような絶えず生成途中にある持続や運動は全く持って考慮されていないのです。数学が身を置いているのは間隔の両端であって、明確な輪郭を持たない持続とは似ても似つかないものなのです。

 

内的多様性

 さて、第一章の最後で提起された問題に、ここでやっと立ち返ることができます。つまり、2種類の多様性——「数的多様性」と「質的多様性」——の問題です。数体系のような離散的多様体と質的多様体は、全くもって異なるものであり、これら二つの多様体に基づいて、「多」も、「区別」も、「差異」も量的なものと質的なもの2種類に区別できます(数的多様体と質的多様体は第二回の中心的なテーマの一つでした)。

 我々は、数的多様性と質的多様性を混同してしまっています。実際、その違いを言語で表現することに限ってみても、想像以上の困難がつきまとうのです*4。数や空間とは無縁の質的多様性は、自分自身の意識の深奥のうちに立ち返れば確かに存在することは明らかであるものの、それを日常的言語で表現することは非常に難しいのです。

 しかし言語化はできなくても、ベルクソンにとって、「質的多様性は、自分自身の意識の深奥のうちに立ち返れば確かに存在する」ことは明らかです。数的多様体である数を数えている際も、それを空間的に並立させるという加算作用の傍らで、これらの単位同士が有機的に統合されていくプロセスが進行している=質的多様体の側面が確かにあるのです。物を数的に数えるプロセスに付随して、その数の変化と同時に、全体の性質や様相が変化=質的にも変化しているというのです。

 

実在的持続

 日常的な記号的表象=言語使用によって、あるいは、運動の例でみたような持続の空間化や分割化によって、我々は「持続」を見失っています。外的世界に触れ、客観的な原因や運動の空間的位置を見ることで、本来的な内的自我にある持続の感覚は、互いに引き離され、各瞬間に分断され、根本的に異なるものに変容させられてしまっているのです。

 しかし、これまで繰り返したように、ベルクソンは、注意深く内的・心理的考察を加えれば、確かに内的自我の奥深くに「持続」が存在しているのだ、と主張します。外的自我は、数的多数性を有し、明確に規定され、記号・言語によって表現されますが、その下には、相互浸透する相互異質な瞬間が構成するもう一つの内的自我——質的多様性を有し、そこで継起する心的事象が融合し統合し続ける自我——が、隠れているのです。我々は日常生活において、外的自我で満足していますが、それは実際には等質的な外空間に投影され変貌を被った後の自我でしかありません。我々は、常識の要請に従って、物事を区別するという欲望に駆られ、現実を記号に置き換えてしまい、記号を通してしか世界を見ようとしません。とはいってもこのように「屈折させられた自我」である外的自我は社会生活を営む上では必須のものであるため、我々は社会で生きる以上この外的自我を優先せざるを得ません。ですが、その傍らで、内面に潜む真実の自我を見失っていっているのです。

 

自我の二つの様相

 内面に潜む真実の自我を再発見するには、強靭な分析の努力が必要です。これには、まずもって心の中の心的事象(感覚・情動・観念)を空間から切り離さなければなりません。心的事象には空間に凝固させられた心的事象とそうではない心的事象の二つの様相があり、感情はこの二つの様相で我々の眼前に現れます。そして、真実の自我の再発見には前者のような心的事象を離れ、後者のような心的事象をあるがままに知覚する必要があるのです。

 前者のような心的事象は、鮮明で明確な輪郭を持っているけれども非個性的です。一方後者は渾然として動的で表現不可能ですが、個性的です。しかし、この後者の心的事象は言語によって表現された瞬間に固定化され、非個性的になってしまいます。

 我々は日々生活を営む中で、個人的な生活より社会的な生活を重視するため、自分の感情を固定し、それを言語で表現しようとします。「しようとする」というより、そうせざるを得ない、と言った方がいいかも知れません。そのため、我々は絶えざる生成のうちにある自分の感情までも、外的な言語と混同してしまいます。変転極まりない繊細で捉え難い我々の印象も、外的・不動・確たる輪郭(=言語)を身にまとい、固定化されてしまうのです。

 ある決断をした際に、なぜその決断をしたかと聞かれると、なかなか説明しにくいこと、自分が最もこだわる見解こそ説明することが難しかったりすること、これらはまさに深層の自我が渾然として表現不可能であることの証であるのです。我々の深層にあるものは言葉にしにくく、どうでもいい我々に帰属することが希薄な観念ほど、言葉によってうまく表現できるという事実は、まさに、深層の自我と表層の自我の違いを示しているのです。

 

まとめ

 以上の議論によって、「意識は、異なる二つの様相のもとに現象している」ということ、そしてその二つとは、「意識を直接知覚する」か「外的空間に屈折させる」かに応じて異なっているということが論証されました。

 深層にある意識は、数概念とは全く異なる純粋質的な存在です。しかし、我々は等質空間という観念を保持しているため、この純粋な意識を直接知覚することが困難です。我々人間は純粋質的な感情を空間化し、固定化することにすっかり慣れてしまっているのです。このような空間化は、社会的生活への第一歩です。事物を外在的に捉え空間の等質性をはっきりと認識する人間の性向は、共同生活と言語使用を可能にしたのです。

 こうして社会生活のための基盤が実現されればされるほどに、我々の意識は内から外へと移り変わっていきます。「社会の諸条件が完全に実現されればされるほど、われわれの意識状態を内面から外界へと押し流す流れもいっそう顕著になる。少しずつ、われわれの意識状態は、対象物となり、事物へと変化してゆく。互いに離散してゆくばかりでなく、われわれの意識状態は、われわれ自身からも離れてゆく。そして終に、われわれは自らの意識状態を等質場においてしか認知できなくなり、その等質場においてそれらをイメージとして凝固させ、言葉によってありふれた色合いにそれらを塗り込めるのである(竹内訳:p134)」——こうして、我々の意識は外在的なものとして対象化され、名付けられ、固定化され、その元来の相互浸透した表現不可能な意識は失われてゆくのです。

 

*1:カントにおいては「空間と時間の両方」が我々の認識能力に主観的に備わっていることになりますが、ベルクソンにおいては「空間」についてはカントに同意するものの、「時間」についてはカントと別の道を歩むこととなります。

*2:ここで提示される「左」と「右」の例は非常に示唆的です。等質的に空間を把握する能力が人間特有のものであるとするならば、「左」や「右」という位置概念も人間特有のものということになります。実際、改めて考えると、左右という概念は、言語等論理のみで説明することは非常に困難であることに気づかされます。特に素粒子物理学ではいわゆる「オズマ問題」(≒宇宙人に左右を正しく伝えられることができるか)が長らく問題となっていました。この、普遍的な物理現象として左右非対称が存在するのか(=空間反転した時に物理法則が同じにならない)、という問いについては、左右非対称は存在しない(=パリティ対称性がある)と考えられていました。しかし、1950年代に弱い相互作用が関与する物理現象であるベータ崩壊を観測する実験で「パリティ対称性の破れ」が明らかとなりました。したがって、左右という概念は必ずしも人間の頭の中のみでしか存在しないとは言い切れない状況になってきていると言えるでしょう

*3:足の速いアキレスと足の遅い亀がハンデありで徒競走をし、先にスタートした亀がある地点Aまで進んだ段階でアキレスはスタートすることを考えます。スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先の地点Bに進んでいるはずです。次にアキレスが地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先の地点Cへ進んでいるはずです。同様にアキレスが地点Cに達した時には、亀はさらにその先の地点Dにいることになります。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない、ということになる、というおかしな結論が導けてしまうというパラドックスです。

*4:この例として、本書中でベルクソン自身も「質的多様性」を説明する際に、「いくつかの」という数的表現を使ってしまったことを素直に認めています。