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本の要約、メモ、書評など。

【読書メモ】井筒俊彦『イスラーム思想史』

井筒俊彦イスラーム思想史』(2005、中公文庫)

 

 イスラーム世界の原点となったコーランの思想的構造の解明から出発し、コーランの章句を知的に反省することから生じた「思弁神学」、イスラーム文明の現世的享楽主義に対する反動として現れた「スーフィズム」、そしてギリシャ思想のイスラーム的展開として発達した「スコラ哲学」——これら三つの大きな思想潮流に分かれて発展していったイスラーム思想の歴史をそれら三分野の代表者たちの思想を通じて巡っていく博覧的大作。 

 興味深かったのはイスラームにおいてギリシャ哲学がいかに受容されたかという点。イスラーム哲学に輸入されたアリストテレスは純粋なアリストテリスムではなく、後期ギリシャ哲学の手を通った不純なアリストテレスであった(「アリストテレスに還れ」をテーゼとしたイブン・ルシドもその例外ではなかった)。したがってイスラームにおけるアリストテレスは新プラトン主義的な色彩を帯びて展開することになる。一方、新プラトン主義化されたがゆえにアリストテレス哲学がイスラームの宗教的感情に受容されやすくなったという。絶対者を存在の源とし、そこから最下の物質界に流出するという新プラトン主義的流出論はイスラームと高い親和性を有していたのである。

また、以降のヨーロッパ哲学にいかに大きな影響を与えたかがよく分かる。イブン・シーナーの「空中浮遊人間説」(真空中に浮遊している完全な一人の人間がいると仮定する。この人は完全に盲目であり、外を見ることができない。また、真空中なので空気の触感ですら感じられない。しかしこの場合でも「自身の存在」は認めることができる。つまり、「我在り」という自身の存在を人間は直観的に知っている。)はデカルトのコギト命題を先駆している。また同じくシーナーの存在論(事物は「現にそこにある」(=存在している)ということと「何々としてある」(=本質)ということの二つの要素から成り立っており、「Xがある」だけということはあり得ず、必ずXは「aとして(何らかとして)」ある。)はハイデガー存在論(存在と存在者の区別)に通ずるところがあるように思う。さらにガザーリーの時間論・空間論は時間・空間を人間の表象の作用とみる点で、カントの第一アンチノミーにおける時空間のアプリオリ性の議論に通ずるところがある。

 

 

1.イスラーム神学

・アラビア遊牧民族

視覚と聴覚の異常な発達→著しく視覚的・聴覚的文化

個物を絶対的に尊ぶ精神=あらゆるものは独立

直観的、感覚的(⇔論理的)→物質主義的・個物的、目に見えるものしか信じられない

ムハンマドの誕生

ムハンマド=感覚的で非論理的→この精神がコーランを生んだ

コーラン…論理的に見れば矛盾だらけ⇔後代の神学の精神(=コーランを論理的に組織立てようとする試み)

→著しく視覚的で聴覚的(※視覚性?=アッラーはまるで人々の目の前にありありと見えるがごとく描かれている、さらにアッラー自身も視力・聴力秀でていた)

→目に見えるものが神の力の具体的な表れ→感覚的・物質主義的なアラビア人に対し、「さあ、視るがいい」

ムハンマド以降、神学の誕生

法源の確立、何を法源とするかで対立

→四大学派の成立

 ①ハニーファ派…アッバース家公認、思索的論理的、キヤース・ラーイ(個人的解釈)重視

 ②マーリク派…ラーイを認めずハディース重視、イスティスラーハを法源

 ③シャーフィイー派…コーラン、スンナ、イジュマー厳守、これらで解決できない場合に限りキヤースを許容→四法源の確立

 ④ハンバル派…コーランハディースのみ

・思弁神学の誕生

コーランは根本的に非論理的だが、このため信仰者は去就に迷ってしまうためなんとか

コーランを体系化しようとする試みがされるように

 →非論理的精神⇒論理的精神への転回

  転回の原因①生活領域の変化(遊牧→都市、その他民族思想との接触

       ②ムハンマドの死→問題が生じたときに解決を与えられるような権威が不在→コーランを見てもあやふや→イスラームに論理を付与する必要

コーランの内的矛盾…予定論(人間の自由意思は完全否定)or人間に意志あり

予定論の立場

 =ジャブル派…神の宿命の絶対性を主張→人間が悪をなすか善をなすか も神が決めている

  カダル派…神の予定、宿命を正面から否定、人間の自由意思を認める→社会にはひどい悪があふれているが、それを神がするわけがない。また、神は人間の善に賞を、悪に罰を与えるといっているが、もし神の宿命が絶対で自由意思がないとしたらなぜ賞罰などがあるのか

 →ゆえに、人間は自分の行為を創造している

※ムルジア派とハーリジー

 ムルジア派…ウマイヤ朝の敵対勢力の攻撃からウマイヤ朝の正統性を弁護

  敵対勢力(特にハーリジー派)=ウマイヤ朝はアラビア的で信徒を殺害するような非宗教的な奴らだと非難→信徒を殺害するような罪深きウマイヤども異端者は絶対に救われない

  上の非難に対し、ムルジア派=多神崇拝こそ唯一の大罪であり、それ以外の罪人は救われうる(信仰義認説的)。とりあえず最期の時に神様がどう判断するかに任せておく

 →両者の対立は、政治的なものから次第に思弁的なものに=信仰の増減をめぐる両派の対立

  ハーリジー派=信仰は増減する。悪いことをすれば信仰は減る

         →彼らは信仰の中に「行為」を組み込む

  ムルジア派=信仰と行為は別。信仰はあくまでも信仰

         →信じれば救われる、信じることによってのみ救われる

・ムウタズィラ派の誕生

ムウタズィラ神学=アッバースカリフのマアムーンが公認教義に、ムルジア派とハーリジー派の中間、「理性」を真理の標準として認める→理性の自律へ

「神の正義」を主張=行為を創造しているのは人間自身(カダル派)、ゆえに人間の責任で来世で賞罰をうける→善い悪いの判断は理性によってのみなされるものであり、神もこの理性の基準に従わねばならない。善悪は神が定めるのではなく、神は理性によって善悪をただ知るだけ

   →神は「不当なこと」をしない、人間が勝手に不当なことをするだけ

    =こうしてはじめて神の正義を弁護できる

偶像崇拝」否定=生き生きとした神の姿を否定、アラビア精神とは正反対をいく

   =コーランの人間的表現はアレゴリーにすぎない(ターウィールを採用)

    →神は事物を超越した絶対者

神の性質について、「永遠性」以外の永遠的な性質をもっていない

  永遠性…はじめなき永劫の過去から存在する

   →神の知識や力は二次的なもの、神の本質はただ「永遠性」

   →コーランも二次的、コーランの永遠性はみとめない=コーランは神によって創造されたもの(コーラン創造説)

・ムウタズィラ神学への反動(前期アシュアリー)

反ムウタズィラの立場=コーランは字義通りに解釈すべき、ターウィールを認めず

→神には知識も聴覚視覚もある、コーランは神の言葉であり創造されたものであはない、あらゆるこの世のものは神の意志によって存在、信仰には行為を含む(ハーリジー派的)=ハンバル派的…コーランとスンナに帰れ

アシュアリーはとにかくムウタズィラに反対する必要があり、それゆえ極端な立場をとった→でも無反省的伝統墨守はよくない、思索によって神を認識する必要

・「中間者」としてのアシュアリー(後期アシュアリー)

中間の例…ムウタズィラ=コーラン創造説⇔ハシュウィーヤ=コーランもそれを書いたペンも無始の過去から存在

 →アシュアリー=コーランは無始、それ以外は創造

  信仰には「認識」が必要…信仰は確実な神の認識に基づくのでなければ正しくない

  →ガザーリーに至りこれが正統に

・当時のイスラーム神学における原子論

信仰と両立させていかに自然界を説明するか

 =我々の感性的な世界は一瞬一瞬に来ては去っていく偶有の連続からなる変化の世界

  変化は偶有のみならず実体にもおこる(=実体も偶有も可変的)→可変的ということは、永遠的ではないということ→ゆえに、万物は神の創造によって初めて存在することの証明

 =実在は実体と偶有からなるが、我々が認識しているものは偶有にすぎない。すなわち実在とは思惟の中に存在するのみで客観的には存在しない(つまり物質は客観的には存在しない。思惟の中にのみある)。時間も単に様々なものの同時存在の形に過ぎず、客観的な実在ではない

   偶有…実体の性質であって実体ありき

   実体…真に独立して存在する唯一のもの、すべての実体は互いに独立

     →これらはそれ自身としては「非空間的」であるが、必ず「位置」を占める

       位置を占めることによって間接的に空間を領する

       =空間は延長のない単位の集合(位置)によって構成される

        これらの単位の間に運動がある以上、原子間には間隙がある

        原子はそれぞれ働きあうことなく独立して運動している

        これらの原子がたまたま集合した際に「もの」の形態が生じる

      →数も空間も運動もすべては非連続的な延長をもたない原子に分散して考えられる→時間は多くの個々の今の連続、この連続の間にはかならず隙間がある。モノの実体も同様で、今の一瞬しか存在しない

      →神は瞬間ごとにこの世界を創造している。あらゆる一瞬が特殊な神の創造的行為=瞬間瞬間は断絶している→因果律の否定へ=瞬間瞬間は断絶しており、直前と直後の間には何ら関係がないため。因果(必然)だと我々が思っていることは習慣(偶然)に過ぎない

 =イギリス経験論的

イマーム・ル・ハラマインの思弁神学体系(=上の原子論を体系化)

認識論…認識の対象を在るがまま認識すること

 永遠的な認識(=超時間的認識)…神に内在する属性

 偶成的な認識(=時間的に限定された認識)…さらに三分(①必然的認識②直観的自明的認識③獲得された認識)→③のみ人間がコントロールできる

  ③について、獲得される認識は「正しい推理」によって生み出される

  =「正しく推理すること(※正しい推理=正しい論拠に基づきその論拠の指示に厳密に従いつつ確実な知識を獲得させるもの)」が重要

    →正しく推論できればその対象についての認識が完了する

     [正しく推理]→[結論]→[認識を獲得]

     =この際、推理に続いて得られる結論は神が創造する→推理と認識の間には神の創造的働きのほかには全然仲介者はない

    →推理には「論拠」を要する

     論拠…これに基づき推理することで、認識ができる

      理性による論拠と聞き伝えによる論拠

 世界…神を除いたすべての存在物の総称

  世界は実体と偶有から成る

   実体=位置を占める

   偶有=実体に宿る性質

   物体=二つ以上の実体が結合してできたもの

  偶有について=偶有は存在する、偶有は非永遠的、偶有の無い実体は存在しない

         →実体も偶有も非永遠的→世界全体も非永遠的

 →こうした果てしない神学論争のかなたに、神はいつの間にか姿を没してしまっていた。温かい神の懐に帰りたい、不安の念

ガザーリー

まずは自分をよく認識する(知る)ことが大事だと主張

 →どれが一体本当の自分か?そもそも確実な認識とはいかにして可能か?

  確実な認識=弁駁も誤謬も矛盾も絶対にありえない自明性を有するもの

 →我々はそれをなぜ「あきらかに自明だ」と思うのか…人が生まれながらそうだから(人間の悟性)

自明的性質を持つ認識としてあり得るもの

 ①感性的知覚…経験による知識→しばしば間違える。頼りにならない認識。×

 ②悟性的認識…純粋に感性的な経験からは出てこない。例えば「物は同時に二つの場所にあることはできない」など。

  →この悟性は自明的性質を持つ確実な認識。しかし…この悟性も疑いの対象に

  =悟性より至上の境地があるかもしれぬ。悟性も夢同様目覚めたら一場の至上性にすぎなかったと思うかもしれぬ→悟性の権威にも制限がある=「知」の領域に限定される

    「知の領域」=確実な判断によって論理的に一分の隙なく構成された世界

           異論などない、絶対的に確実なもの

    「信の世界」=確実ではなく疑いようがあるもの→思弁的神学や形而上学も異論や論争がある以上こっちに分類される

   →この二つは全く別物。混同してはならない。信仰を悟性によって理解する(混同する)ことなど不可能。知によって神の認識はできない

   →だから、彼は決して哲学そのものを否定したわけではない。あくまでも悟性=知の領域たる哲学が悟性の限界をわきまえず信の世界の事柄を説明しようとすることを非難していた。

    逆に、信仰を全面的に擁護したわけでもなく、信の世界たる信仰を知の領域的にとらえ万民に同様の原則を強いるような立場(パリサイ主義)をも非難した。原則重視の固定化された信仰は誤っており、個人的な、生き生きとしたものとしての信仰を強調した。(※イコール個人主義的な神秘主義に走ったというわけではない。ガザーリースーフィズムの独善的な態度を非難していた)

 イスラームと信仰の別…イスラーム法を守り外的に礼拝や規則をこなすのは、良いムスリムではあるかもしれないが、良い信仰人ではない

    →信仰とは、個人の体験でなければならぬ(⇔とりあえず信仰しとく、親に言われてなど)

    →その意味で、思弁的神学も信仰を体験しておらず、良い信仰人ではない

     =思弁的神学はその権威をガザーリー以降失う

      (=「理屈」よりも「体験」の時代に)

 

2.イスラーム神秘主義

スーフィズムの起源

原義…霊魂の救済を得ようとする隠遁者の生活様式であって、理論的思想でもイズムで

もない

→これが新プラトン主義の流入グノーシス宗教・インド宗教哲学等と結びついて理論的哲学思想となった

 スーフィズム誕生の背景…もともとイスラームムハンマドの終末観的ヴィジョンに始まる→ムハンマドは現世に対する深いペシミズムを持っていた=現世は根源的に悪→しかし、ヒジュラ以降積極現世的になり、ウマイヤ朝となると宗教は外面的儀式となりムスリムらは現世快楽的になっていった。

   →かつての信仰心を失わず、あさましき世を憤懣をもってみる敬虔者…スーフィズム→彼らは徹底的に来世主義的

・初期の修道者たち

ウッバード…全身全霊をあげて神を奉仕する人

ウマイヤ、アッバース期→都市では物質的・現世的生活が蔓延

 →これに対し、多くの人が世を捨て隠遁生活に入る+キリスト教の修道者らの影響

 =修道生活の組織化へ(8C末、クーファ中心)

  →彼らはとにかく禁欲的苦行道の実践を強調=「苦行道」

・修業道の理論的反省

 修業道の積極的側面=ズィクル(唱名)とタワックル(依存)

 →来世における神様の魂の救済を目的としたもの

 新プラトン主義の流入により大きく転換

 →禁欲的修業は「神の姿を魂に映し出し、最後に神と合一する」ための手段であるとみなされるようになった=神との合一の「手段」に

 この転換を醸成したもの…プロティノス的流出論と動的神秘哲学

 +シリアのキリスト教神秘主義の影響=「愛」に崇高な意義をみとめる

神秘主義的思想形成の発端

次第に神智学的に=存在論、認識論など

この中でシリア神秘主義から受け継いだ「愛」は独特の方向へ

 →神への愛はいわば「恋」のように=人間的色彩が加えられる

 →神と霊魂の結婚が最終目的に

・初期スーフィズム思想の黄金時代

バグダード中心

サリー・サカティー…「タウヒード」の意味を転換させる(→「神が唯一であること」→「神と唯一になること」)

ムハースィビー…自己審問、心の眼を自己の内側に向ける

ジュナイド…自我を殺し、新しい命に生まれ変わる→あらゆる人間的属性を脱する

      スーフィズムの行き過ぎを是正し、イスラーム正統派の枠内でスーフィズムを樹立しようとする→スーフィズムは統一ある正統的教説を獲得

バスターミー…修業道における「愛」の方向の転換

 =「人間の側から神に向かう愛」ではなく、「神が人を愛している」のだ、という

   初心者からすれば「人→神」、神の側からすれば「神→人」(=愛の方向は二重)

  「自我」について…人間は肉体によって本来の霊性を隠蔽されている→肉体的自我を死滅させ、神と我の距離をゼロとする必要→「合一境における消滅」

  →スーフィズムが実存的に(⇔それまでは審美的観想的)

ハッラージ…バスターミーの「合一」を推し進める=バスターミーの合一においては人間主体が実体的に転成するとは考えられていなかった(暫時的同一)が、ハッラージにおいては人間主体は完全に変質し、一実有が全く違った他の実有に変わってしまう=キリスト教的側面も(キリストの「受肉」説)

まとめ…「スーフィズム=神との合一」のみではなく、これはスーフィズムの一側面に過ぎない。スーフィズムは、神の絶対的超越性と絶対的内在性を同時に成立させることを体験的に可能にした

 

3.スコア哲学——東方イスラーム哲学の発展

3-1ギリシャ哲学の移植

ギリシャ思想の発展=純粋な原型のままに留まらず、イスラームに輸入された形においては、一種の折衷説として発展(新プラトン主義の影響を受けたアリストテレス哲学であった)

・シリアのネストリウス派キリスト教徒によるギリシャ哲学受容

 最初は医学から

アッバース朝マアムーンによるギリシャ哲学の翻訳事業

 バイトアルヒクマでアリストテレス全作品の翻訳が完成

・しかしこのアリストテレスは純粋なアリストテリスムではなかった。後期ギリシャ哲学の手を通った不純なアリストテレスであった

 →イスラームにおけるアリストテレスは新プラトン主義的な色彩を帯びて展開することに

・一方、新プラトン主義化されたことで、イスラームの宗教的感情に受容されやすくなった

 =絶対者を存在の源とし、そこから最下の物質界に流出するという新プラトン主義的流出論がイスラームにマッチ

・さらに、アリストテレス偽書によってもアリストテレス哲学の新プラトン主義化は促進される

 =「アリストテレスの神学」…実はプロティノスの抜粋

原因論」…プロクロスの著作、流出論を説く

 +偽エンペドクレス書…第一質料からの流出論を説く

3-2キンディー

・あらゆる存在者の本質を究めることなしには、それらの存在者の源なる必然的存在者を知ることなどできぬ

・個物の原因を辿る(個物→自然→魂→知性→神)=第一原因である神から物質的世界まで段階的な因果関係がある

・「知性」…一般者を理解⇔「感性」…個物を理解、四つの知性に分類

・ムアタズィラ神学との関係

 =イスラームをムアタズィラ神学的に解釈すると、新プラトン主義的アリストテリスムと完全に一致するという確信をもっていた

  →ムアタズィラと新プラトン主義の一致を企てる

   これらが矛盾する場合は宗教的真理の方が上位であるとし、解決

・だからといって、偏狭なイスラーム主義者であったわけではない

 真理の普遍性を信じていた。ギリシャ哲学の不完全なところを、(ギリシャの文脈とは異なる)アラビア語固有の、そして自分の生きている時代的慣習を参照し埋めていく→こうして普遍的真理を打ち立てられると考える

3-3ファラービー

アリストテレス注釈の始まり

・理性重視、実践よりも知識、哲学=真理を求める学であり、コーランアリストテレスがどう言おうと、自分が真理と信じる者を信じた(とはいっても、彼はイスラームを軽視しなかった)

・新プラトン主義を活用することで、イスラーム文化を完全に改革しようとした

 哲学と宗教の関係は、哲学の優位を主張した。哲学は真理を直接ありのままに把握する、宗教は真理を形象的象徴的な形で提示

・普遍者論について…普遍者は個物に宿る一者であり、個物を離れて存在しない

 →知性(普遍者を認識)と感性(個物を認識)の両者によって認識される

・知性は生まれた時からあるが、それは「可能態」にあるだけで、感覚と表象とによる経験を得てはじめて「現勢態」になる

・この現勢態への移行は、神によってなされる

 =神からの流出(段階的に)→最下圏の月の天圏から人間界に流出

  この流出した知性によって現勢態に移る

  →我々の認識能力も能動的知性という神光を受けなくては働かない

   ※この能動的知性自体は何らの質料とも結合しない純粋形相

・こうして現勢態となった知性は、ついに獲得知性へとなり、この知性は全く非質料的な自己自身をも直接に把握する

 →我々は質料の衣を着ているので、我々の本質を第一実在から遠く引き離す→獲得知性によって物質を離れ非質料的な自己を把握することで、我々は神の本質に近づける

・第一原因としての絶対者=それ自身原因を持たない、絶対に必然的に存在

 この完全無欠の存在=アッラー、全くの質料性を持たない

3-4純正同胞会

・民衆の間に折衷的(新プラトン主義とイスラームのみならずキリスト教マニ教占星術などなんでも)哲学思想を広める

3-5イブン・スィーナー

・「存在」問題

 存在は定義できない、存在者は存在するものという名によって説明するよりほかに説明しようがない

 しかし、「存在」がどういうものであるかは説明できないが、確かに「存在」は我々の心理に確立されている(存在がどういうことかなんとなくわかっている)→存在こそは我々の意識にとって本源的、特に「我の存在」は端的にそれが現れる、魂の直観によって把握される

・「空中浮遊人間説」

 =真空中に浮遊している完全な一人の人間がいる。ただ、完全に盲目であり、外を見ることができない。真空中なので、空気の触感ですら感じられない→この場合でも「自身の存在」は認めることができる。つまり、「我在り」という自身の存在は直観的に知っている(デカルトの先駆者)

・存在の特異性

 =存在は特殊な基礎的性格を持つ、外界との接触も理性もなしに、直接存在の意味を直観する

・存在が物に属する属し方には二つある

 =実体と偶有

・存在(~がある)と本質(~である)は実質的に区別可能?

 事物は「現にそこにある」(=存在している)ということと「何々としてある」(=本質)ということの二つの要素から成り立っている

 =「Xがある」だけということはあり得ない。必ずXは「aとして(何らかとして)」ある。(「~がある」=マーヒーヤ、「~としてある」=ウジュード)

・「本質」と「存在」はどのように結びつく?

 =本質(例えば机性)はそれ自体では自分の存在を作り出すことはできない。存在という性質を他から得て初めて「あるもの」(例えば存在する机)として実現する。

アヴィセンナ存在論の矛盾

 「存在」が偶有であるとすれば、それは物の一種の性質ということになる

 しかし、「存在」という偶有が「初めからそこにある物(本質)」に宿りに来るということはあり得ない。「存在」という特徴を持たない本質とは、そもそも存在していない。

 e.g. 「白い」という偶有と「紙」という本質

   →初めからある「紙」という本質に「白い」という偶有が宿りに来る

   ⇔初めからある「紙」という本質に「存在」という偶有が宿りに来る、という事態は想定できない→「存在」が宿りに来る前、「紙」は存在していないのだから。

 →「存在」という偶有が宿る以前の「本質」=ありえない

  しかしアヴィセンナはあえてそのような「本質」を措定した=「自然」

・可能性の概念

 =偶有性とは別、全ての被造物を覆うところのそれらの本質的構造

  「不可能性」の対概念というより、アヴィセンナ的には「必然的」の対概念

3-6ガザーリーの哲学批判

アヴィセンナによるイスラーム的哲学は宗教保守派から猛攻を受ける

・さらに、ガザーリーの哲学批判により、哲学の威信は地に落ちる

ガザーリーは哲学を徹底的に極めた先で、哲学は「生きた真理」を与えてくれないことに気づいた。

イスラームに取り入れられたアリストテリスムの命題を批判(その方法自体は理性的哲学的)

<ガザーリーの思想>

・時間空間相対論

 哲学の立場=世界は永遠的、無始的であり、神が世界を無から有にもたらしたということはあり得ない

 イスラーム=絶対に無始ではない

 ガザーリー=哲学者は本性上の先と時間上の先を混同している。時間上先であることはかならずしも本性上先であることではない

 →神は「時間的に」世界より先にあったのではなく、「本性的に」世界より先(時間的、と考えるから矛盾しているように見える)

・さらに進んで…そもそも時間は実在する?時間は我々の表象の作用であり、「相対的関係」であって「実在」ではない。我々にとっての関係に過ぎない

・空間も時間同様「相対的関係」に過ぎない。我々の側に成立する主観的関係→我々は時間空間の関係なしに事物を表象できないが、神も同様だと考えるのは誤り=神は時間空間に限定されていない。時間空間は客観的実在ではない

・神と一般者と個物

 哲学の立場=神は一般者のみしか知り得ない。個物を対象とはしない

  →意志とは何かが欠けているからするもの→神は完全であるため意志することはない。神の本質は意志ではなく「知ること」にある→神が知る対象は何か。一般に対象が変化すると思惟も変化する→神が対象の変化に従って変化することはない→対象は変化しない一般物しかありえず、個物ではない

ガザーリー= 時間空間が我々に現れる形式的・関係的なものであることを忘れている。思惟が対象に合わせて変化する、という説は誤り。あくまで対象の時間空間的関係が変化している(ように見える)だけで、認識それ自体は不変であり、思惟する人の本質も不変。

 →意志は神の属性の一つ。意志によって単に「知っている」物事を統合する。意志することで世界を認識。一般者のみならず、特殊な個物をも悉く知っている

・偶因論

 神だけが唯一無二の絶対原因。事物は原因たりえない

 →因果律自然法則ではなく、神の全能による

  事物における原因と結果の関係は全然必然的なものではない。ただの時間的継起関係にすぎない

ガザーリーが与えた社会的影響

 反哲学感情が爆発→東方イスラーム哲学の終焉⇔アヴェロエスの反撃

 

4.スコラ哲学——西方イスラームの発展

1「孤独の哲人」イブン・バーッジア

・西方…アンダルシアのギリシャ系スコラ哲学。イスラーム思想の内部では孤立現象、西欧のキリスト教哲学界に大きな影響

・俗世の中に身を投じる、感性・神秘主義を否定、理性的思考のみが神を視る特権を与える

存在論

 存在者=動かされるもの・動かされぬもの(=他を動かす)の二種

  →前者=物質、後者=知性としての神

・霊魂

 人間は意識的に精神の向上を努めることができる→これによって物質性の阻害を除去→最終的に純粋知性を獲得

 純粋知性の段階では、知性は個々別々の存在ではなくなってしまう(霊魂は個別的だが、知性は一般者→知性は万人において一、人類全体の知性)

  →この知性は、上位の能動的知性が流出したもの

・「物質」→「霊魂」→「知性」→「能動的知性」→「完全純粋な天上界の知性」

 この連鎖(感覚的な個物→超人間的な神聖なもの)をすべて把握するとき、人間は完成される(思惟と思惟対象の一致)→この完成のためには合理的知性に頼らなければならない

2 イブン・トファイルの哲学小説

・哲学も宗教もその最高点まで登ると完全に一致してしまう

・民衆における宗教の役割

 大衆は愚物であるが、これが社会の大多数→最高真理を彼らに伝えるには…

 →宗教の役割が重要。宗教は哲学真理をわかりやすく象徴的に示したもの

  大衆には哲学的真理をそのまま伝えてもわからないし、さらに悪いことに、信仰をぐらつかせることも

3 イブン・ルシドの哲学

・「アリストテレスに還れ」

 純正なアリストテリスムへの回帰を主張。イスラーム哲学におけるアリストテレス理解は誤っている。アヴィセンナの新プラトン主義的アリストテリスムを批判

 ⇔とはいっても実は、ルシドの言う「純正なアリストテレス」も本当に純正ではなかった=流出論と知性論は新プラトン主義の影響を知らぬ間に受けていた

・宇宙無始論

 世界は確かに創造されたものであるが、始めはない=永遠的

 世界が創造されたことと世界の無始性は矛盾しない

 →世界も何もない虚無においては時間を考えることは意味をなさない

  神は宇宙を創造する「とともに」時間をも創造した

  神は世界を一瞬ごとに新しく創り出している。神の創造の力が常に働いている

・質料と形相

 質料は形相を容れる一種の容器として、ありとあらゆる形相を始めから潜勢的可能的に含有している=「形相が外部から質料に付与される」のではなく、「元々質料の中に潜在している形相が引き出される」。

・知性単一説

 個人個人で別な知性があるのではなく、唯一同一な知性があるだけであって、個々の人間にこの「唯一同一な知性が顕現する」と考える

・哲学と宗教の関係

 両者の根源的一致を認め、両者にそれぞれあった役割を与えることで、哲学と宗教を共に肯定。しかし、その重心は哲学にあり、両者を分離させる導火線をはらむ

 ※ルシドが生きた時代背景:ムタワッキルの治世、宗教と哲学の対立→宗教的正統派が完全に勝利、哲学思想に対する弾圧は苛烈となり、哲学者は「哲学する前に生存権を獲得する」必要があった→したがって、ルシドも自身の思想が宗教から見て絶対的に必要であることを示す必要

 イスラーム法における三段論法(キヤース)を使って、哲学がワージブ(義務)であることを証明しようとする。すなわち、①コーランは宇宙を考察してその製作者たる神を識ることを強制的行為として命じている。②宇宙を観察しそれによって神の知に達しようとするものは哲学である、③ゆえに哲学はコーランによって強制的なものと認められる、という形で論理的に哲学がワージブであることを導く。

 論理的結論とコーランの記述が矛盾する場合…まず矛盾することはあり得ない。外面的に衝突するように見えても、深く考えると衝突していない。

 ※コーラン内でも衝突があることがある→この際、神学者はタアウィール(象徴的解釈と内面的意味を分けて解釈して切り抜ける)を用いる

 →タアウィールを哲学と宗教の対立にも適用。哲学は論理的結論であり明瞭、宗教は盛んに比喩を使う→宗教側にタアウィールをすることで矛盾を切り抜ける

 ※このタアウィールは誰もがしてよいわけではない。最高最深の知識のある者にだけ許される

・人間三段階説

 三段階=哲学者、神学者、俗人

 俗人…「神は天の上にいる」と考える。厳密な神学的にはこの考えは神を空間的に限定していて正しくないが、この段階の精神に属する単純な信者としてはそれでよい。これ以上の難しい議論をするとかえって信仰を揺るがしてしまう。

 コーランのタアウィールと三段階の関係=コーランの内意と外意が区別される場合は哲学者がこれを解釈、この解釈を哲学者は一般の大衆に漏らしてはならない

 宗教は民衆教化のために絶対に必要なものであり、知的思索の出来ない人は宗教によって真理を学ぶ(できる人は厳密な学的認識によって真理を手にする)→哲学と宗教はそれぞれ自己の分を守って他を害さぬようにすることが重要

 神学者批判=神学の所説を批判するのではない。問題は神学者が自説を誰彼の見境なく漏らすところにある→哲学者は宗教を必要としない。理性>信仰。宗教は知性が低い民衆のために哲学者が直観する裸の心理を近づきやすい感覚的な象徴で包んだものに過ぎない

 三段階説における預言者の位置=哲学者が直観する裸の心理を近づきやすい感覚的な象徴で伝える役割。これをうまく行う人。

 →これらを鑑みるに、ルシドにおいて宗教は二義的な低度の真理。なにより哲学的真理こそが「真理」