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【読書メモ】井筒俊彦『意識と本質』

井筒俊彦『意識と本質―精神的東洋を索めて』(1991岩波文庫

 

 1983年に刊行された井筒俊彦の代表的著作。副題の「精神的東洋を索めて」が示すように、井筒は、「自分の実存の「根」は、やっぱり東洋にあったのだ」(p409)という痛切な自覚から、本著で「東洋哲学」の理念を追い求めるという壮大な試みに立ち向かった。だが、一言で東洋哲学といってもその射程は眼が眩むほど広く、多様である。それは、本居宣長松尾芭蕉、宋代儒学老荘思想といった日本・中国の思想に留まらない。カッバーラーなどのユダヤ教神秘主義やイブン・アラビーなどのイスラーム哲学、さらにはヴァイシェーシカ学派などのインド哲学にまでその射程は及ぶ。井筒は、こうした限りなく多様に見える東洋の諸哲学を「共時的構造化」——諸思想を時間軸から解放し、それらに共通する一つの思想的連関空間を創造しなおす——という方法によって、創造的に理解しようとするのである。

 本質概念の東洋的特徴とその多様性を明らかにする冒頭から第2章に至るまでの記述は、『意識と本質』の分析方法をありありと示すと同時に、井筒哲学の魅力を端的に顕示するパートである。サルトルの『嘔吐』における絶対無分節の存在(「黒々として薄気味悪い塊」)との対面から出発して、無分節の存在を表層意識ではなく深層意識に身を据えて眺める(非志向的意識を認める)老子の「妙」思想へと、さらに本質抜きの流動的な存在分節があると考える大乗仏教の「無自性」思想へと歩みを進め、老子や仏教と出発点を同じくしながら結論においてこれらと真逆にたどり着くシャンカラやイブン・アラビーの主張にも立ち寄りつつ、彼らのように本質否定的でない、「濃密な個体的実在性」として本質をとらえようとする本居宣長の「もののあわれ」の思想へとつながっていく。井筒は、「本質」を媒介として、多様な東洋哲学の諸伝統と思想のヴァリエーションを、一挙に、また、ダイナミックに呈示するのである。

 本著で用いられる分析概念に関しても、興味深い方法論がみられる。本質概念の分類を「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」というイスラーム哲学の概念から抽出し、これに基づいて、松尾芭蕉の本質論を「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」の同時成立という形で論じる——イスラーム哲学的な分析概念で日本の思想を語る——のがそれである。こうした方法論は、東洋という共通項を下敷きに、様々な思想を横断的に議論する「共時的」手法を端的に示す例であるように思う。

 本著の中盤以降は、本質否定的ではない本質思想について、特にマーヒーヤに肯定的、すなわち「普遍的」本質の実在に肯定的な立場に立つ思想を類型化して論じていく。この類型化は三つに分類されているが、それぞれの思想的特徴を明らかにしていく中で、彼は、「アラヤ識」と呼ぶ深層意識における「種子」の存在を論じていく。そして、「種子」としてのアラヤ識の共通性を論じつつ、文化的パラダイムに色付けされた意識のあり方によって、「本質」の問題性は様々に変わりうると主張するのである。

 

 

(読書メモ)

□「本質」概念の多様性、本質をとらえようとする性向、サルトル『嘔吐』を手掛かりに

・「本質」概念を手掛かりに東洋哲学全体を「共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおす」。人間意識の様々に異なるあり方が「本質」をなるものをどのようにとらえるかを東洋哲学に注目して考察する。特に本質の「実在性」「非実在性」に注目。

・我々は本質をとらえようとする本能的な内的性向を持っている。「本質をとらえようとする」行為は、「Xが何であるか」ということを何らかの形で了解していることが前提。Xがそれ以外のもの(例えばYやZ))と区別されるということが分かっていなければならない。

・禅の「山/水」はこうした無数の本質によって区別される(=無数の網の目で分節化された世界)=日常世

サルトルは意識の本源的脱自性を強調=意識は必ず何かの対象に向かっていく。この対象はすでに「何か」であり我々はそれを前反省的に把握している。

・こうした前反省的本質把握なしでやみくもに外に出ていくと…『嘔吐』における不気味な混沌の泥沼に陥る。=言語脱落との関係。すなわち、言語は、本来的には全然分節されていない「黒々として薄気味悪い塊」でしかない存在に色々な符牒をつけて事物を作り出す働きを有している。

・したがって、無名のXが一定の名を得てはじめて、Xはあるものとして存在することができる。そして名を与えるためには他の物Y、Z…の一切から区別される必要があり、そのためには、Xの本質了解が必要。

・我々の日常世界は存在者を言語によって、本質によって分節して後の世界。この分節化後の世界をはじめからそういうものだとみている。

 

□深層意識へ——老子「妙」

サルトルの『嘔吐』は、無分節の存在を「~の意識」として受け取ろうとするがゆえ。深層意識における無分節の存在を表層意識で概念化しようとするから。

・しかし、東洋においてはこのような場合人々は『嘔吐』に陥らない。深層意識に身を据えている。

老子は名を通して対象として措定された何物にも執着しない。「~への意識」を持たない非志向的意識=無意識を認める。言語脱落の「妙」の世界⇔無数の本質に区切られた「微」

 

□「本質は虚構である」——大乗仏教の「無自性」、禅

・言語が本質を形成する以上、言語によって「名」と「実」が対応させられるだけ。本質は存在しない。「実」は名前によって恣意的に切り取られたものにすぎず、それを実在的に裏付ける実質はない。

・一方、単に現実は夢だといって終わりにはならない。「本質」は実在しないが、経験世界における「名」(分節化された存在)に実在性を認める

・禅は、本質抜きの分節世界の成立を「実践的に」正当化しようとする

 =本質抜きの流動的な存在分節がある

 

□「本質は無であるが、これを突き詰めると絶対的「有」にたどり着く」

シャンカラの哲学は、本質否定から出発しながらも、大乗仏教と逆の結論にたどり着く。形而上学構造の頂点に有的充実の極限=最高度にリアルな実在を認める。(⇔仏教=形而上学的無)

・イブンアラビーの存在一性論もシャンカラ哲学的。本質は我々の表象意識の虚構であって「存在」が唯一絶対の真実在。「存在」が境界線によって分節されたか形が本質。

 

□「本質」の実在性を肯定する哲学——本居宣長

・上で見たのは「本質」に否定的⇔そうではない哲学

・本居は、抽象・概念をひどく嫌い、即物的思考法を説く。=直にものに触れ、そのもののこころをその内側から知ろうとする。直接無媒介的直観知

 

□普遍的本質と個物的本質——マーヒーヤとフウィーヤ

・一方、本居的な「濃密な個体的実在性」(ものの個的リアリティ)に対し、人間の意識の分節機能によって「普遍化・一般化された」もの(普遍的規定性)を本質ととらえる立場もある。

・この意味で、本質には二つの意味がある。これをイスラーム哲学の用語を用いて、個的本質=フウィーヤ、普遍性としての本質=マーヒーヤと呼ぶ。

・この二つの本質をどう考えるか

  • 片方の本質こそが本当。片方しかない。

→しかしこの立場は不安定(アヴィセンナ存在論的怪物、フッサール

  • マーヒーヤとフウィーヤの同時成立

松尾芭蕉の「眺め」意識…本質を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきと説いた。人ともののただ一回限りの緊迫した実存的邂逅の場のなかで、マーヒーヤがフウィーヤに変貌する。

 

□本質と存在の関係——スコラ哲学を参考に

・前段階の準備として、本質概念を基礎的に据えなおす(スコラ哲学における本質)

 =本質と存在の密接な関係

 

□「普遍的」本質の存在を認める三つの立場

・マーヒーヤに肯定的な思想を三つの思想タイプに分けて論じる。分類の基準は、実在する本質を、人がどの層でどういう風に受け止めるか。

  • 普遍的マーヒーヤは存在するが、それは存在の深部に存在する。

→表層的「~の意識」とは全く異なる深層意識に「本質」を見る

(例:宋学の格物窮理)

  • 普遍的マーヒーヤは濃厚な象徴性を帯びた元型として現れる。(①のケース同様深層意識に本質を見るのだが、その深層意識の場所が異なる)

(例:マンダラ、カッバーラなど)

  • 普遍的マーヒーヤは表層で理知的に認知できる。

→理性的(=表層意識的)に「本質」の実在を確認する

(例:正名論、ヴァイシェーシカ

 

□深層意識におけるマーヒーヤの存在を認める立場(①)

マラルメのケース

宋学儒者の理学のケース

・普遍的本質を真に実在するリアリティと信じ、それを深層意識的に把握しようとする。この把握のためには、「静坐」と「窮理」と呼ばれる意識訓練の方法を極める必要がある。

・「静坐」で心内のざわめきを鎮め、「窮理」で心の全体とともに経験的世界の事物を見詰める。「窮理」をある段階まで進めた後に、一気に垂直的に万物の絶対的本質の自覚にたどり着く。深層にあるに違いない本質を目指し、表層から深層に向かっていく

 

□文化・言語に規定される意識・本質の考え方

・②のタイプに入る前に、回り道をして、「意識」が文化ごとに様々に多様であることを示す。=文化的枠組みによって「意識」のあり方も変わってくる。

・上の一例として、イスラーム原子論=神中心的な意識→ここから「本質」論につながっていく。(したがって、意識論が多様であれば本質論も多様に)(※なお、ここから発出する本質論は神を除く万物の本質を否定⇔アヴェロエス

・このように、文化的パラダイムに色付けされた意識のあり方によって、「本質」の問題性そのものが様々に変わりうる。

 

□禅の無本質的分節

・禅における本質論の対立=世界は本質のない事物の偶然的集積or世界は本質によって固定された事物の整然たるロゴス的体系

・禅は経験的世界に現れる「本質」的に固定化された事物は幻影にすぎないとする。だが、それだけで終わらせず、経験的世界を一度徹底的にカオス化した後で、一旦カオス化しきった世界に再び秩序を取り戻す。

・この「再度」取り戻された秩序は無本質的。だが、分節はされている。=無本質的存在分節

・禅におけるこの流れ=有心(存在分節の境位。ここでは真の存在の姿は無限の彼方に隠れてしまう)→無心(無本質の分節世界)へ=ものをその名で呼んで分節しながら、同時にそれを絶対無分節者としても見る

・さらに詳しく見ると…業識(主客の区別)→転識(存在リアリティを様々に分節、無数の分割線を引いて個々別々の事物を現出させる)=この転識が経験的次元での我々の意識の最も自然なあり方。

・この分割線の分節の仕方=その人の属する共同体・言語によって強く規定される=「言語アラヤ識」

→経験的世界はどうしても様々に分節された個々別々の事物の集合として認識される。しかも、事物のこの本質的分節構造を壊せば、経験的世界は収拾のつかない混乱状態に陥り、意識主体もその本来の認識機能を完全に喪失してしまう。しかし、禅はあえてこの危険を冒そうとする。

 

□禅の無本質的分節を意識論としてとらえなおす

・分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)という流れをとる。

 分節(Ⅰ)…普通の経験的世界、分節されている

 分節(Ⅱ)…無本質的分節、ぱっと見は分節Ⅰと同じだが、根本的にその内的様相を異にする。分節は戻るが本質は戻ってこない。

 無分節…分節線が拭き消された状態。無分節=無。

・分節(Ⅰ)における本質は仮構であり虚構=妄念

 →事物は無本質=大乗仏教における「空」(=無自性)

  本質によって区切られる「実」とそれにつけられる「名」の結びつきは因縁・縁起によって結びつく

・分節Ⅰにおける本質…それ自体で独立。閉じられた単体⇔分節Ⅱ…存在的透明性と開放性の世界。ここでの分節は無分節の全体を挙げての自己分節(p170図)

 

□普遍的マーヒーヤは濃厚な象徴性を帯びた元型として現れるとする立場(②)

・「本質」論の第二類型…詩的想像力・神話形成的想像力によって深層意識のある特殊な次元に現れる元型的な形象を、事物の実在する普遍的本質として認める

・深層意識に生起する元型イマージュの形象性のうちに、事物の本質の象徴的顕現をみようとする。

・イマージュとは…?

・イマージュの本来属する場所…深層意識

 深層意識に事物の原型を形象的に呈示。イマージュは、元型の形象化として、事物の元型的本質を深層意識的に露見させる。

 

・「元型」とは…?(ユング

・元型的考えをもつ「易」

 「易」は客観的・分析的普遍的本質ではない→深層的、方向は決まっているけれど、それが具体的にどんなイマージュとして現れるかはわからない

・p214の図でいうと、中間(M)地帯がイマージュの場所。外界に直接の対応物を持たない。

 

□イマージュがM領域内で果たす役割

・象徴的分節

・イマージュをめぐる言語の問題(深層意識的言語哲学

・M領域における元型イマージュのあり方

 =「文化の枠組み」の性格が濃密に反映されている。元型的本質は、ある特定の文化的コンテクストに密着した深層意識が事物の世界に認知する本質

 (p247-248に分節→元型のまとめあり)

・元型イマージュの性格

 事実性からの遊離(非即物性)、文化的制約に加えて、説話的自己展開性と構造化への傾向

真言密教におけるマンダラの例=存在深層に潜む本質としてのマンダラ(=元型)

・カッバーラーにおけるセフィーロートの例

 

セフィーロート的元型の特徴

 

□普遍的マーヒーヤは表層で理知的に認知できるとするケース(③)

・表層意識に座を占める普遍的本質

イデア論的、正名論、ヴァイシェーシカ

 

 

 
 
 
 
 
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