【読書メモ】チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』
チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』(訳)伊藤 邦武、佐々木 崇 、三宅 岳史(2009、岩波書店)
第一章 ジェイムズの『宗教的経験の諸相』
⊡『宗教的経験の諸相』概要
・ジェイムズにとっての宗教=「個人的」なもの
一方で宗教的生活=特定の共同体や教会を通して受け継がれているので派生的なもの
→教会=二次的なもの
・宗教の真の居場所=個人の経験(=感情)の中⇔集団的な生き方
個人的且感情的―感情は個人から発生するので明確に結びつけられる
さらに感情が行為を決定する―感情に第一の地位を与える(プラグマティスト的)
→ので、宗教の本質をとらえるためには、行為と感情を見なければいけない
⊡『宗教的経験の諸相』の見解の位置
・近代文化に非常になじみが深い
起源―ラテン・キリスト教諸国の変化の軸にある中心的方向と非常に一致
=「個人的」コミットメントを基礎とする宗教の重要性
「宗教の内面化」への圧力
→カトリック世界には今日でも間違いなくあてはまる
・個人的宗教という考え方は、世俗的な立場の人々にも共有
逆に、宗教の価値を貶めるという形でも現れる=ジェイムズが恐れていたことであった
・さらに正確に「個人的宗教」の位置を分析すると…
―「無償のしもべ」or「敬虔的ヒューマニズム」→「経験的ヒューマニズム」
―「理知の宗教」or「心情の宗教」→「心情の宗教」
=宗教的な生き方に関して理論や知識は必要ない
⊡『宗教的経験の諸相』への批判
・彼の宗教理解と現代文化のいくつかの面が重なり合う
→彼の宗教理解が「宗教の今日とりうる唯一の形である」という誤解
・個人主義の限界を超えられない=教会以外の方法で、特定の激しい経験を取り巻く一連の洞察を伝えることができるだろうか…?
→宗教的結びつきのようなものが欠落
・定式化されない経験という考えそれ自体が不可能…?
e.g. ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン
=経験について何も言うことができないのならばそれはいかなる内容も持つことができないのではないか。
⇔これに対してジェームズの反論=記述化はそれ即ち理論化ではない
第二章 「二度生まれ」
⊡「二度生まれ」とは
・「一度生まれ」の心=健全な心、世界のすべてが善いと思い、自分が神の正しい側にいると考える
・他方、病んだ心、世界の中に苦痛、悪、災いを見ずにいられない心も
⇒ジェームズは後者の側に立つ。健全な心の持ち主には見えず、病んだ心の持ち主にしか見えないものがある
=①宗教的憂鬱(=意味の喪失)
②悪としての世界に直面する恐怖
③個人的な罪深さに対する鋭い感覚
⇒これらの憂鬱は我々の生の営みにおいて普通に見いだせる殺傷や死といった多くのことに対する適切な応答では?
⇒最も完全な宗教は、厭世的要素が最もよく発達した宗教=キリスト教・仏教
これらの種の憂鬱・厭世の経験を通過した人=「二度生まれ」
・「二度生まれ」=正しく理解された意味での宗教の核心、解放の経験、生きようとする意志の感覚
・③の個人的な罪深さの感覚=福音主義的キリスト教の今日の拡大の中に現れる
(福キ教の拡大は人々の回心の結果である)
・①の憂鬱=一般的。近代以前では「無感動による個人的な追放」⇒近代以降では「意味それ自体がすべて喪失」=という憂鬱
・この近代的意味での憂鬱=すべての人にとっての脅威→これに対する一つの答えとして宗教を理解(ウェーバー)
・②の我々を覆い尽くす悪という感覚←防御策がなくなってしまい、このため我々は①の物事の無意味さの中に飛び込んでしまおうとする
⊡彼の宗教観の動機
・彼の宗教の見解=「果たして我々は信仰を容認できるのか」という問題の議論において、決定的に重要な一部を担う
・ジェイムズは科学の時代に宗教は不要だとする論議にたいして「信仰を擁護」する必要があった
・クリフォードの議論から―信仰すべきかどうか、合理的な選択はどちらか?
…信仰によって心理を明るみにできるのでは
…何か間違ったものを信じることになるのではないか
(この二者に第三の道はない、否応なしの選択になる)
→この心理の獲得失敗に関する二つのリスクの間で、「不可知論的な権利の拒否(圧倒的な信仰が合理的だという証拠をもつまでは神を信じるな)」のほうを採用することは、反対の態度よりも合理性が少ない(=パスカル的)
→不可知論者は、情念を締め出そうとしている→一方で、人間の心の実際の動きから情念を締め出すことはできないので、虚偽意識に陥っている
・この信じるべきか、信じないべきかの二者の争いに対して一つの視野を切り開いた
この信仰と無信仰の倫理問題が袋小路に入ってしまう理由をはっきりとさせる
①対立するそれぞれの陣営は、各々全く異なる論拠に基づいて議論
②両陣営どちらか一方が力を全く失うような状態になり得ないこと
③しかも私たちは、どちらか一方の側につくことなしには活動することが全くできそうにない
第三章 今日の宗教
・ここまで、人が信仰か無信仰かの選択をする地点や転回点というものを描き出すジェイムズについて話してきた。
・この世界は、この選択の地点で人々をいずれの方向に動かすような個人的決定に一層依拠⇒結果としてこの世界は、ジェイムズの描き出す余分なものをほとんど取り除いた宗教的風景に似ているのではないか
⊡公共的領域の世俗化
・「魔術化された世界」
―聖なるものと俗なるもののコントラストははっきりしていた。神が社会に現前することを可能とするような明白な形が存在。
・「脱魔術化された世界」
―神聖なものはもはや聖と俗の水準双方にまたがって君臨する王の中には存在しなくなる=「聖」のカテゴリーは姿を消す
―神が現前できるようにするためには、「我々が完全に神のデザインに従った社会を建築する限りで」ある(e.g. アメリカ独立宣言における、神によって作り出された道徳的秩序において具体化)
⇒この道徳的秩序において個人はもはや階層秩序の中に埋め込まれた存在ではない
この個々人が相互利益のために手を携え連合する
・この連合の達成のために、最初の頃は神の設計を実現する必要があると考えられていた=「神の下の一つの民」として自らを理解=やはり神が存在している社会である
・この新しい概念の事例の判例としてのアメリカの「公共宗教(civil religion)」(ベラー)=「アメリカは神の目的を実行する使命を持っている」
→独立宣言=神の意図したデザインの一部ということにこの法の正しさは基づいている
→こうした伝統と現在の間には連続性と非連続性
=建国者たちと同じ原理で現在も動いていると考える人と、この道徳的秩序を正当化しているのは神の摂理ではないと多くの人が考えていることから断絶を主張する人
相互利益への関心の高さ→宗教への支持の妥当な形式―自発的なもの
=信仰の強制などありえない
⇒新しい自発的な連合であるメソジスト派の増加、米・セクトの増加(=教派の誕生)
※教会とセクト(トレルチ)
教会=社会のすべての構成員を集めることを要求
セクト=本当に構成員となるに値する人々の救済だけに専念
この教派主義=特定の教会に属するわけではなくなる
そのため同じ教派の人々とは組織化されず、そんな全体に属しているという感覚が存在
=国家的考え
・一方、カトリック
=社会的に神聖なものが教会によって規定
・アメリカ・プロテスタント的宗教・国家間のつながり=新デュルケム的
―人々の生の精神的次元が政治的次元から全く分離
我々が完全に神のデザインに従った社会を建築する
=社会の「政治的アイデンティティ」
・カトリック(バロック的)宗教・国家間のつながり=旧デュルケム的
―国家の存在が神に依存しているという感覚がまだ残っている
「新デュルケム的」=アメリカ合衆国こそ人類のほかの部分に自由民主主義をひろめるという神の摂理に基づく使命を持っていると考える
=信仰と「新デュルケム的」国家の一体感
⊡新しい個人主義
・1960年代―個人化の革命
※確かに近代がすでに個人主義に基づいていたが、現代ではその個人主義の新たな基軸に
この明白な外的兆候=消費者革命
―核家族化、空間の個人化=自分自身の人間性を発見し実現することが重要に(「ほんもの」の文化の拡大)
→この都市に住むモナド達は、独我論とコミュニケーションの間を揺れている
=我々は大多数の人がお互いを知らずに肩を触れ合いながら、互いに干渉することもない。人々はそれでも影響を与え合い、互いの生活は不可分である。
→この空間は孤独と一体感の間を漂っている
・この表現的個人主義=相互利益という近代的な道徳的命令に関しては、より強化される→「やわらかい相対主義」に
=互いの自由・公平さを尊重+互いの「価値」を批判しない
この他人の尊重の命令は今までは他命令との関連の中で存在
=ジョンロックの言うように、自然法は人々に対して教え込まれる必要性
↓
今や単独で存在=JSミルの「危害原則」―他者に危害を与えない限りは誰も自分の価値に干渉できない→個人的な幸福の追求へ
・しかしこれらの個人の幸福追求には制限(e.g. 性道徳、市民倫理、プライバシー等)
⇒相互尊重の原則は深く世界に根を張っている
この表現的個人主義=非デュルケム的
※旧デュルケム的=教会は原則的に社会と同一の広がり
国民の意に反しても無理やりに統合
新デュルケム的=選択した教会へ入れる。→我々をより広く、捉えどころのない「教会」につなぎとめ、それは神の摂理を果たすという役目を担った国家へとつなぎとめることを意味
⇒これら=神への信奉と国家の帰属の間には一つのつながりが存在
新デュルケム的段階で、個人の権利に向かう方向が萌芽=自分の正しいと思う教派に入れる
↓
ポスト・デュルケム的=この新しい表現主義の中では、聖なるものと自分とのつながりを、教会であれ国家であれ、いかなるより広い枠組みの中に埋め込む必要がなくなる
⇒道徳的秩序の理想について、私たちが一つの広い合意に到達
「聖なるもの」の政治的忠誠からの切り離し
⇒感動と鼓舞を与えてくれる自らの進路とは異なった精神性を信奉することは、不条 理かつ矛盾=「自分の内的な自己にとって本物だと響くものだけを受け入れよう」
この表現主義への移行→新しい繁栄によって宗教に惹きつけられなくなる
・公共空間における宗教の地位低下(=ポスト・デュルケム的時代への移行)
=新旧のデュルケム的体制を動揺させる→人々を徐々に解放→ばらばらに分裂した文化へとそれぞれ参入or人々をこの分裂した世界へと一気に追い出す
↓
無神論者の増大
さらに中間的立場(信仰を持つが実際に信仰活動をしない)や以前ならありえなかった形で宗教を信仰(仏教徒キリスト教の組み合わせ等)