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本の要約、メモ、書評など。

【読書メモ】舟木亨『現代思想史入門』(3章 歴史)

舟木亨『現代思想史入門』3章―歴史(pp.214-306)(2016年、ちくま新書

 

 

1.歴史の歴史

・歴史の概念

 前近代における「歴史」=物語、フィクションと事実

 17-18Cパスカルライプニッツ=自然の真理とは別に「事実の真理」がある

 ベイル『歴史批判辞典』(1696-97)=合理的・客観的歴史記述の意義を強調

                  →フィクションとしての物語から歴史を区別

 ヴィ―ゴ『新しい学』(1725)=歴史を重視した学問体系の構築

 ヘーゲルの歴史哲学

 ―「文明進歩」の思想

 歴史=一人ひとりは時代の真理を超えられないが、世界精神という人類共通の知性が段階を追って、自由になっていくという哲学的過程→「絶対知」に到達して歴史は終わる

 そして、哲学が歴史に赴く際に携えてくる唯一の思想は,単純な理性の思想,つまり理性が世界を支配し,したがって世界の歴史も理性的に進行する

 ―ヘーゲルの影響

 マルクス―文明進歩の最終段階が共産主義社会である

 ヴィンデルバントリッケルト(新カント派)―理論理性と実践理性を区別するカントの理性概念に倣って自然科学と文化科学(精神科学)を峻別。自然科学は、法則定立的 (nomothetisch) な方法を用いる。つまり、自然科学は、その対象を普遍妥当的な法則を通して記述する。これに対して文化科学は、一回限りのもの、個別的なもの、そして特殊なものと関わり、個性記述的な (idiographisch) 方法をとる。=文化的価値を重視

ポパーの『歴史主義の貧困』

 JSミル、マルクス歴史観全体論ユートピア的と退ける

 この「工学的」歴史観は人間経験の実情に反している

 ・宇宙の歴史と歴史学

 一方スペンサー、ベルクソン、プラグマティスト=人間精神中心のヘーゲル歴史哲学、精神重視の新カント派の歴史観に反対

 →宇宙と生物と人類の歴史の全体像へ=自然における人類の「進化」を論じる(=「世界史」)

 歴史はもはや人間の物語ではなく、直線的時間の上に並べられる客観的事実の連鎖に

 →専門科学としての歴史学へ―ランケ、アナール学派

ナチュラルヒストリー

 古来の物語=包括的→「博物誌」=包括的語り場

 ↓

 ベイルの歴史批判→魔術的博学的知識=「博物学」に

 ↓(進化論の発展)

 「世界史」を含めたすべてが自然淘汰の系譜である普遍的登記簿の上に刻印

 ⇒すべてを歴史とする思考様式=本来は人間の出来事であった歴史が、人間抜きでも成り立ちえるものとなり、そこに組み込まれるものとなる

 ・普遍的登記簿

 以前=物語としての歴史―事実かどうかは問題ではなく、「語る」ということ自体もまた出来事であった

 ベイル以降=事実かどうかを考えるように―なぜ?

 →事実にあたるときは資料を基に判断→ここで逆説的に「歴史に記述されているということが事実を事実として確定」。そして、「歴史に記載される=科学的説明」となる

・歴史とポストモダン

 歴史が出来事の順を追っての記述であるとすれば、現在の出来事も後で歴史として説明される

 ここで神が歴史の中では不在であって、過去の書き直しも含めて常に新たな歴史が書かれるようになっているとしたら?

 

2.現代哲学

・哲学の終焉の始まり

 歴史=普遍的ではなく、やはり人間が作り出したもの

 しかし、歴史それ自体について思考してきた哲学すらも、歴史の中に書き込まれる

  =出来事を解明するためではなく、もはやただ整理編集されるためのものであって、人々は相互に自分の捉えた歴史の方が正しいと言って論争する

※メルロ・ポンティ=歴史は自らが歴史の外にいて全貌を把握しなければ絶対的なものとならないが、他方ではまた歴史の中に自らが属していなければ、歴史を解明しようとする動機すらもつことはできない⇒歴史の中にいながら歴史を語るのは根本的矛盾

 →現代哲学は歴史の中に自らの真理を書き込もうとしていたのではあるが、しかしそうしながら、それ自身が歴史の中に書き込まれていき、それを通して真理を得る力を徐々に奪われる→哲学の終焉…? 

・哲学の四つの道

 19C後半~現代哲学の始まり

 シューネルバッハ『ドイツ哲学史1831-1933』(1984)による現代哲学の四つの分類

①精神の領域を文化や歴史によって確保しようとする「精神哲学」としての哲学

 =近代哲学を延命する試みに過ぎない

②知の全体に対する特別な地位を確保しようとする哲学

 =正の哲学・実存主義

③新たな基礎付けを目指して哲学の復権を果たそうとする哲学

 =現象学・ベルクソニスム

 生命の現象も含みこんで、人間と世界のすべてを普遍的なものとして説明することのできる大哲学を再び建設しようとする

④科学の一部分となってその意義を確保しようとする哲学

 =プラグマティズム論理実証主義(・構造主義

 ・哲学という思想

 哲学=普遍的?⇔西欧における一つの知的伝統に過ぎない

 現代=哲学の終わり?=自然科学の普及、進化論、普遍的登記簿

 →「現代哲学」は哲学から派生した科学によって知の源泉という立場を追われた哲学の巻き返し

・生か意識か

 デカルト=人間が生物であることを否定、<わたし>=「精神」

 ↓

 進化論=デカルト的意味で生命現象が機械論的秩序の下にあることを示す

     デカルト主義に対決して、人間の「精神」さえも進化の中で発生する機械的なものに過ぎないとする

 ↓

 デカルト主義の克服へ=二元論の克服(心身二元論

 ①進化論を踏まえて、進化してきたすべての生物を生かしているばかりではなく、人間の生命と心と、その文化と歴史のすべてを成立させてきたものとしての「生(レーベン)」こそが哲学の真の主題でなければならない=生の哲学

 ②進化において意識が生まれてくるという生物学的な論理を否定して、合理性の意味をはっきりさせようとする立場=「意識の哲学」

現象学

 ブレンターノ…意識について語られるのは、つねにその意識の「対象」に関してである=「志向性」

※現象=イデア論の伝統の下、直接には経験できない実在するものがあって、その写しとしてわれわれが経験するもののこと

 現象学=そこにある種の論理があって、その論理を研究することによって、実在するものの知識に到達する諸段階や、実在するものとの超越的連関を解明できるとする考え

 フッサール…現象を意識との連関から考える=自然科学・生の哲学においては意識されなくても構わない物質や生命の方に優位性を置くのに対して、これに対決するため。

フッサールの「現象学的反省」

 理性的思考を可能としている意識に注目、意識のあり方そのものを分析することによって、合理性といわれてきたものがどのようなものかを考える

 つまり、「意識が理性的になるのはなぜか

 しかし、意識を対象にするとしても、それをしているのが意識であるから難しい

 →これに対して

  -ロック=「リフレクション(反省)」…最初に与えられた知覚の印象が記憶されて観念となったものを、鏡のように反射(リフレクト)させて整理すること

  -フッサール=ロックよりも厳密に反省する必要があると考えた

   →「エポケー(=判断停止)」…思考する中で意識はすぐに判断してしまうがそれをともかく一旦停止して「括弧に入れる」、そしてそこで意識において何が起こっているか記述してみようとする

ベルクソンの「純粋持続」

 『時間と自由』=時計の示す客観的時間は「空間化された時間」であって、そのような時間に従う精神は自由ではありえない

 ギュイヨーの「強度」という概念に注目=強度-段階として数で表現されるような差異とは異なりそれ自身においてしか理解できない

 段階的差異-ものさしのように、空間の中の距離として表現し得る

 記憶について=二種類に分けて考える

 ①回想するような記憶=「辞書を引いた」という出来事を回想する

 ②反復して習慣化し、身体に備わるような記憶=「辞書は引いたことがあっても、その単語の意味が思い出せない」といったような単語の意味の記憶

 多くの哲学者=「これは机だ」というような現在にあるものの知覚は過去の経験の習慣的記憶から可能になっている。記憶は時間がたつにつれ段々とボロボロになってきた布きれのような知覚なのであるが、しかし現在の近くに活性を与えながら更新されていく

 ベルクソン=むしろ記憶こそが実在の呼び出されたものであり、現在の知覚はその反映に過ぎない。そして、とりわけ回想における時間経験こそ、精神と呼ぶべきものである⇒精神がまずあって過去を回想しているのではなく、回想を可能にする「時間」が精神を構成し、これが現在の知覚を可能にしている。

 さらに精神を「純粋持続」と言い換える。

  持続=時刻の変化や交替では無い時間のたち方

  →純粋な持続=持続が時計の時間のような「空間化された時間」と混同されていないこと

 ベルクソンの言う真の時間=過去はすべて現在の中に習慣と形態となって与えられており、現在の状況に応じて、その特定のものを回想できるようになっている

 過去は上述だが、では「未来」は?=「偶然性」を本質とする

 →未来の偶然性と自らが推進することによって、精神ははじめて自由なものとして出現する

 ⇒進化論によってただ脳の一機能のようにされてしまった「精神」の復権を果たそうとする

 ⇒精神とは時間である。現在とは、写真に撮られたような時間(=客観的な諸事実が実在している世界の存在の一断片)ではなく、過去が未来に向かって可能な無数の行動を素描し、現実的な諸事物を作り出そうとして、持続しかつ炸裂しているという、そのプロセス。

ドゥルーズの「差異の哲学」

メルロポンティ…上述のベルクソニスム批判も結論は似たようなもの

⇒メルロポンティとベルクソンの一番の違い=いかにして幾何学や言語が生まれ、社会が成立したかという「相互主観性」、および歴史についての議論

ジル・ドゥルーズ―差異という概念が「時間」にとってかわり、ふたたび空間性を主題に

・現代哲学の終焉

上記のように、科学的知見を念頭に置きつつ、近代哲学の衣鉢を継ぐ「大哲学」を展開

→この意味で哲学の「ル・ルネサンス

⇒それに果たして成功?

問題点―言葉が難解、さらに難しい方がいいという雰囲気

 

3.論理実証主義     

・心理学と心霊学

 上述の4分類の内の④(哲学が科学の一部となる立場)

 =プラグマティズム論理実証主義(論理学中心)と構造主義言語学中心)→革新を目指す

 両者=「旧いタイプの心理学」を捨てる

   =「心の学問」、生きていく仕方にアドバイスを与える、モラルとして

    ↓

   現代=認知心理学デカルト主義的(=心理学の科学化)

フレーゲの「意味と意義」

 「意味」=文脈によって規定され、論理的に真か偽かが問題になるような要素

 「意義」=言葉が指示する対象

 Eg 「宵の明星は明けの明星である」

→「宵の明星」「明けの明星は」それぞれ金星を指している⇒金星=意義

 「宵の明星」と「明けの明星」は「意味」は異なる

 つまり、

 対象の認識とその論理=精神が与えるものでも精神の働く仕組みによるものでもなく、心理学的なものではない。→言葉に備わっている

ウィトゲンシュタインの「語り得ないもの」

 ラッセル…たとえば「丸い四角は丸い」というパラドックスの文章(ラッセルのパラドックス

 →「丸い四角」という語の意義(対象)が、語られる以上は存在する

  それが存在しなくても真理となる場合がある

  ⇒論理学が真であることで述べられているものは、世界の中での我々の経験とどのように関係しているのだろうか

 ⇔これに対して

  ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』…「世界とは事実の総体である」

  ※「事実」=「事態」から現れる、「事態」=「事物」から構成される

  言葉(とりわけ論理的に整除された言語表現)=「事実の絵

                       =事実と文は対応/写像関係

  言葉の論理的表現(命題)には、単位としての要素命題(原子命題)があり、それが指示する対象(事物)において経験に関係づけられる。しかし、その事物が事実を構成しているのではなく、事物から成る事態があるだけで、そこから言語表現抜きに我々の経験が「事実」として表れているわけではない。言語表現によってこそ、事態の中から事実が現れる。

 ⇒世界とは論理的な言語表現によって述べられる限りのものとしてしかない。

 ⇔事実の総体である「世界」を知りたければ、徹底して論理的な言語表現を作成していけばよい

 世界に関するそれ以外のもの、「語り得ないものについては沈黙しなければならない」

 

「語り得ないもの」=善美のことがら

「語るべきもの」=科学的真理

 :ウィトゲンシュタインの主張=従来の哲学が善美のことがらと科学的なものを切り離さずに議論していたのに対し、世界の解明は科学と論理学に任せておけばいいとした(=哲学の終焉)

 ↓

 モーリッツ・シュリック―「論理実証主義」派の形成

  従来の実証主義=対象の存在を問うことなく現象についての仮説的理論の正しさを実験・観察を通じて確認

  論理実証主義実証主義+理論の論理的整合性を通してその正しさを確認していくことができる

英米系哲学

論理実証主義以降の2つの思想的立場

分析哲学-哲学はまだ終わっておらず、言語の分析を通して従来の哲学的問題を解明できるとする立場(=「言語論的転回」ローティ)

ウィトゲンシュタイン自身の思想的転回-「言語ゲーム」=日常会話では、言語表現は論理によってというより、使用によって成立する

⇒「日常言語学派」出現

L・オースティン=言語はある種の行為であって、それにおいては、現実を変更することに意義

がある

 

4.構造主義

・歴史言語学

言語学においても心理学に依拠するのをやめて科学の一分野になろうとする指向

19C-フンボルトの言語論=言語と文化と民族の関係が論じられる←ナショナリズムの高揚

  →諸国語相互の比較、各国語の歴史の比較研究(=歴史言語学派)

   言語を論じる際、諸国語(ラング)を対象とし、その起源と進化を主題に

    ラング=語られる限りでしか存在せず、たえず変遷していく→この変化は必ずしも進歩ではないし、一人一人が正しいしゃべり方を追求しているわけではない

ソシュール…ラングの歴史をも説明できるようなランガージュの本質へ

       言語は人々の思惑とは無関係に、その無数の音声の組み合わせの内部にある独特の法則によって変遷

       →言語に内在的な歴史こそがランガージュの真の歴史=通時態

        ※変遷する言語の現在の断面=共時態

ソシュールの「差異の体系」

 どのようにして言語によって、言語について語ることができるのか?

 →ソシュールにとっての真の問題―「言葉に意味があるとはどういうことか」

 音素―音素が聞き取れるのは、語を形成できるだけの音素があって、相互にほかの音素とどう異なるかを前提として知っている時だけ=音素の成り立ちを決めるのは、音素相互の対立

 例)「あいうえお」が区別できるのは「あ」「い」の違い、「あ」「お」の違いのように、全ての組み合わせすべての相互の対立がわかっているから

   ⇒「差異の体系」

 音声とそれに対する意味という区別を捨て、言語を記号から成るとする

シニフィエ」―意味するもの=海のイメージや、海という概念、ないしその意味内容

シニフィアン」―意味されるもの=「海」という文字や、「うみ」という音声

構造主義の出発

シニフィエ」とフレーゲのいう「意味」の違い

―「意味」=論理的に規定される文脈的な働き

―「シニフィエ」=時間に連れて展開する語相互を繋ぐ統合関係と、潜在的に代替可能な語を出現させる連合関係

ロランバルトのエクリチュ-ル(書き言葉)とパロール話し言葉

フレーゲパロールを整えるものとしてのエクリチュール

ソシュールエクリチュールパロールの写しでしかない

 ソシュール言語学の対象は、「意味」がまずなければ成立しないほかのもろもろの言葉の理論とは異なり、意味も同時に成立する言葉の理論

 =シニフィエシニフィアンを内在しているシーニュ相互の差異の体系は、これまで知られていなかった第三の領域としての記号空間であり、それが人間科学的対象の真の領域となるのではと考えられた。

 この記号空間=シニフィエが聞き取れる限りで成立するシニフィアンの空間

 ―音響とシニフィアンは根本的に違う 例)鶏の鳴き声 日本語「コケコッコ―」

    ↓                        英語「クックドゥ―」

 ―我々は物理的音響空間以前に、シニフィエが知覚される記号空間の中にいる

構造主義の3つの課題

記号学―記号(シーニュ)の適応範囲とどのように差異の体系として理解されるのか

②通時態―共時態としてのラングの研究に対し、通時態としてのラングの変遷の理論を探求すべき

③記号がどのようにイメージや概念に結びつくか

 ロランバルトの「エクリチュール

①の課題記号学に取り組む

『零度のエクリチュール』―「エクリチュール」=書き言葉のことであり、言語の一部、差異の体系の下にある

ソシュールエクリチュール(文字)はパロールの代理

デルタ=ソシュールに対して、文字はアルタミラの洞窟などにあるような、ものに刻まれた一般という、パロールとは別の起源のものである

⇔に対してバルト=エクリチュールパロールに影響し、それを改変してしまうという事実

例)パロールであっても、公式の場・目上の人に対しての「正しい言葉遣い」=エクリチュール

フーコーの「エピステーメー

②の課題に取り組む

フーコー…図書館にこもって、誰が書いたともつかない膨大な量の文書を、当時語られて、人々が納得していた言説を示す資料とみなし、「どのような条件のもとにそのようなことが語り得たか」を問題にした

    =いまとなっては奇妙な論拠やよくわからないレトリックの中に「エピステーメー(人々の思考の枠組み)」がある

     歴史は主体や人格、性格といった人為的なものによって作られるのではなく、むしろ人の群れの構成の諸原理が発見される場

     また、歴史は不連続であって、出来事の統一性はないが、様々な系列を成して形成されてきた出来事の地層が見いだされる→エクリチュールを発掘してその断層を発見する必要

フーコー

=精神においても身体においても、科学と称する知が権力と結びついていく様々な系譜と断層を提示

→どんな文化現象でも歴史の主役にすることができるように

特徴:ヘーゲル的な歴史(一つの概念が主体とされてその変遷が描かれる)を廃し、いくつもの概念がその関係やそれぞれの意味を変えながらネットワークのように姿を変えていく様子をとらえようとするやり方

現代の知の前提には普遍的登記簿としての「歴史」がある

―その登記簿自体はどこに?

絶対的な意味ではどこにも存在しない

フーコーにとっての歴史=現在にある過去の無数の諸兆候、記号の総体

 その総体の中に、「いま」起こることの類似性や同一性を探し求め、そのシミュレーションをたえず現実の出来事に置き換える

しかし、歴史は人間主体によって担われるものではない。

自然と呼ばれてきた諸現象も含めて、その多様な地層と数多くの断層を精査して、我々の生きている現在を理解させる系列を掘り起こすのが、現代の歴史家の使命

 

5.象徴から言語へ

・メルロポンティの「生の歴史」

歴史には干満(=意味ある出来事へと向かう緊張と、それがちぐはぐになる弛緩)がある哲学の求める真理は、その干満と独立してあるのではなく、歴史がひそかに満ちてくる中で初めて意義を持つ

 例)歴史が緊張したその時に、レーニンが「我々は労働者だ」と叫んだ時に「歴史の真理」としての革命がおこる

↓やがて

ソシュール言語的に捉え直し

―人間の意図的な行動よりも、無自覚的な知覚やしぐさが重要

                   -なぜか?

・象徴と記号

なぜか=「言語は記号である」ということの意味がかかわってくる 

※言語を何ととらえるか?

19C後半-20C前半=精神の存立基盤が疑われるように

          当時、思考とは切っても切り離せないものとして、言語の意義を重視。

          ⇒パースの言うように、言語を象徴の一つと考えるように

          =記号とは異なって、象徴は人間が作り出した もの、人間だけが意味を理解できるもので、そこに精神が自然から独立してなし得ることの特異性を証拠立て

しかしメルロポンティ=「象徴」というあいまいな表現で精神を言い換えたとしても、それで精神の説明にはならない

ここでマーティン・フォス『シンボルとメタファー』=象徴という概念の使用停止