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本の要約、メモ、書評など。

【要約】臼杵陽『「ユダヤ」の世界史——一神教の誕生から民族国家の建設まで』

臼杵陽『「ユダヤ」の世界史——一神教の誕生から民族国家の建設まで』(2019、作品社)

 

ユダヤ人の4000年の歴史をその多様性という観点からとらえなおし世界史の流れの中で叙述した一冊。エレツ・イスラエルを追われたユダヤ人がシオニズムによって国家を取り戻す、という物語化・単純化された歴史観を相対化し、実際には離散の状況をどう理解するかに関しても対立する理解があり、多様なシオニズムの流れ、あるいはシオニズムに与さない流れがあったことを明らかにする。

 ユダヤ人の歴史というとその悲劇性が過度に強調されがちであるが、ユダヤ人の離散状態を「自発的離散(=テフツォート)」とみなす人々もおり、実際に今住んでいる場所(フランスなりイギリスなり)こそが「故郷」であるという考え方も大勢であった。彼らは住んでいる場所で平等な市民権を獲得するなどして解放されていくのだ、と信じていた。また、イスラーム世界におけるユダヤ教徒に注目すると、迫害のみではないまた違ったユダヤ人のあり方が確認できる。スペインでは寛容な統治の下、織物製造や貿易で成功する者も現れ、オスマン帝国ではミッレト制の下、ユダヤ教徒のコミュニティは自治を約束され、ユダヤ人は商業や貿易、法律知識を有した必要な人材として迎えられたのである。

 また、シオニズム運動についても、一見すると近代以降大多数のユダヤ人が「ユダヤ人国家」を「エレツ・イスラエル」に建国することを望んでいたかのように思われがちであるが、実際には様々な動きが併存しており、この主張はあくまで一つの選択肢でしかなかった。

 実際に1860年に結成されオスマン帝国で広く活動した万国イスラエル同盟(以下アリアンス)はフランス的普遍主義の下で活動した組織であり決してナショナリズムの考えは有していなかったし、19世紀に圧倒的多数を占めていた中東イスラーム世界出身のユダヤ人はヨーロッパ的な考えのシオニズムに全くついていけなかった。また、シオニズムの父ともいわれるヘルツルも、建国地をパレスチナに拘っておらず、とにかくポグロムの脅威からユダヤ人を救い出せればその行先はどこでもよかった(この流れの中でウガンダ案やアルゼンチン案などが浮上する)。

 こうしたユダヤ人の、あるいはシオニズム運動の多様性は、イスラエル建国後のイスラエル労働党などによって、自らに都合の良い歴史観に塗り替えられていく。フランス的普遍主義を基礎とするアリアンスの活動はなかったことにされ、1880年代の第一波アリヤーはナショナリズムの考えをそれほど強く持っておらずアラブ人たちを雇っていたためなかったことにされる。だが、そうして作り上げられた国家には最初から自己矛盾が内在することとなった。「ユダヤ」人の「国家」を建設するという宗教性と世俗性の矛盾を抱えたまま、文明的ヨーロッパと野蛮的アジアのはざまで正統派ユダヤ教的規範を自己批判的に排除していって建設されたイスラエルは、その建国以前から、国家内部の、あるいはアラブ諸国との対立が不可避な構造を有していたのである。

 

第1章 「ユダヤ」の歴史を考えるために

<離散と定住>

 本書の基本的視座として、「多様性」と「統一性」という観点を提示する。つまり、「ユダヤ人は一枚岩ではなく、複数のユダヤ人、ユダヤ教の形がある、しかしながらやはり大きくそれを一つにまとめるものがある(p. 47)」ということだ。

 「多様性」について。ユダヤ史は、ユダヤ人のディアスポラ状態をいかに捉えるかによって、まったく異なる様相を見せる。つまり、ユダヤ人が世界に散らばっている「離散」こそが正常なのか、パレスチナに移民して「定住」することこそが正常なのか、という対立である。この「離散」については、バビロン捕囚によってパレスチナを追われ、「強制的離散(=ガルート)」に遭ったのだから本来の祖国に戻らなければならないという考えと、自ら進んで「エレツ・イスラエル」以外の場所へ離散していったつまりディアスポラの状態を「自発的離散(=テフツォート)」とみなす考えの対立が見られる。

 シオニズムは前者の代表であり、「離散」を否定する。離散状態ではユダヤ人はずっと迫害される。この迫害から逃れるにはユダヤ人国家を作るしかない、と考えるのだ。他方、非シオニストは実際に今住んでいる場所こそが「故郷」であると考える。彼らは、住んでいる場所で平等な市民権を獲得するなどして解放されていくのだ、と信じていた。

 こうした「離散」と「定住」のジレンマはユダヤ人の歴史の中で続いている。本書はこのジレンマを追っていくことで、ユダヤ人の歴史の多様性を明らかにする。

 

ユダヤ人史の多様性>

 「ユダヤ人史」の先行研究をみると、上のような「多様性」のせめぎあいはより一層鮮明になる。代表的な歴史観は「悲哀史観」ともいえるもので、苦難の歴史を機軸に据えた記述である(シーセル・モス『ユダヤ人の歴史』)。しかし、ユダヤ人の歴史が常に悲惨の中にあったと強調するこうした歴史観は、近年見直しが進んでいる。イスラーム世界におけるユダヤ教徒の歴史を描きユダヤ人の歴史を相対化したシェインドリン、「悲哀史観」を鋭く批判したキャンターやシュロモー・サンド、ユダヤ人の歴史を大文字の単数形で語ることを避け、複数のユダヤ文化があることをみなければならないと主張したルポヴィッチ。彼らの言葉を借りれば、「迫害がユダヤ史の否定できない特徴である一方で、それだけが特徴ではないのである」。

 

第2章 古代ユダヤ人の離散

 出エジプトの後、ユダヤ人はカナン(パレスチナ)の地に定着していく。周囲の大国家に対抗するためにユダヤ人にも中央集権体制が求められるようになると、統一王国が成立し、エルサレムが首都として定められ、ソロモンによって神殿が建設された。

 しかし、アッシリアによって北王国が、バビロニアによって南王国が滅ぼされると、ユダヤ人たちは「バビロン捕囚」に遭う。こうして国を失った中でもユダヤ人は神への信仰を失わなかった。バビロン捕囚によって神に見捨てられた、とは考えずに、神に対する民の義務がきちんと果たされていない、と考えたのである*1。彼らを結びつけたのは「記憶」であった。マイナスのことばかり起こっているが、彼らには「出エジプト」の記憶があった。信仰を保ち続けていれば、いつか出エジプトのような歴史が起こると彼らは信じ続けたのである。

 

第3章 聖書の成立以後のユダヤ教

 聖書の成立の背景には、ペルシア帝国との関係がある。ペルシアは支配下の諸民族を管理するために、民族が従うべきおきてを文書の形にして当局に提出させたのである。律法が文書化されたのにはこうした世俗的な背景があった。

 こうして一旦文書化・固定化されると、律法は変更が難しくなる。そのため、恣意的に律法を解釈する事態が発生してしまう。また、律法の記述が自己矛盾を含むこともあり、律法を正しく実行することが不可能になる。こうした状況から、(いささか屈折した形ではあるが)律法は「人間の自己正当化を回避するための否定的手段」として機能するようになる。

 

第4章 ラビ・ユダヤ教キリスト教

 神殿が破壊されると、律法を重視するファリサイ派が主流になっていく。こうなると、律法解釈こそが最重要だと考えられるようになり、律法解釈を深くしない人は罪人であるとみなされるようになる。これに対し、神との関係をより直接的なものにしようとエッセネ派が誕生する。そしてこのエッセネ派の中からイエスが登場したと言われている。

 

第5章 拡大するイスラーム世界のユダヤ教徒

 イスラームユダヤ教の関係を考えるときに重要なのは、イスラーム啓典の民としてユダヤ教キリスト教をみていたことである。実際に、ムハンマドユダヤ教徒を仲間に入れようとしていたし、ユダヤ教イスラームは神と人間を断絶したものと考える点で共通していた*2。しかし、ユダヤ教徒ムハンマド預言者だという点を受け入れなかったため、ムハンマドは敵対的なユダヤ教徒メディナから排除していくこととなる。しかしその後のイスラーム世界において、ユダヤ教徒は庇護民として扱われ、イスラーム国家内でユダヤ教徒は手腕を発揮させていくこととなる。

 

第6章 十字軍からレコンキスタ

 十字軍とレコンキスタは、キリスト教による「外なる敵」たるイスラームへの攻撃であったが、この際、ユダヤ教イスラームと同時に「内なる敵」とみなされ迫害の憂き目にあった。イスラームと同一視する形でユダヤ教に対する迫害が激しくなったのである。実際に、レコンキスタによってイスラーム勢力がイベリア半島から追放された際に、同時にユダヤ人も追放された。この時にスペインから追放されたユダヤ人たちのことを「スファラディーム」と呼ぶ。

 ワットによるとイスラームにおいて十字軍は、さほど大きな影響を与えなかった、という。ムスリムは十字軍を「フランク人」と呼んでおり、相手が「キリスト教徒」であることをあまり意識していなかった。また、ムスリム内部での争いにキリスト教徒が利用されることもあり、敵対者のムスリムを倒すためにムスリムキリスト教徒と協力することもしばしばあった。当時のイスラーム世界の中心はイスファハーンであり、そこから見て西方の出来事であった十字軍の攻撃は、ほとんどイスラームの優位性を揺るがすことがなかったのである。

 一方、ユダヤ人からみると、十字軍は大きな負の影響を及ぼした。「内なる敵」とされたユダヤ教であったが、これには十字軍以前からキリスト教による反ユダヤ感情があったことが強く影響している。キリスト教からみてユダヤ教は、「キリスト教の真実について知ることができたのに、なおもそれを否認した」という点で問題であった。これが、否認し続けるのだから差別されても仕方がないという認識にすり替わっていく。そして、イスラームに内通している「内なる敵」としてのイメージが流布されていくことになる。実際に、第一回十字軍で最初に犠牲となったのはライン地方のユダヤ人であった。彼らは迫害から逃れ、東へと逃げていく。そうしてドイツ等に逃げ「イディッシュ語」を話す人々は「アシュケナジーム」と呼ばれる。

 

第7章 オスマン帝国におけるユダヤ教徒の繁栄

 スペインからオスマン帝国に流れ込んだスファラディームは、オスマン帝国内で商業、貿易、法律、印刷技術などに長けた人材として重宝された。帝国内では、神秘主義的傾向を代表するラビ・イツハク・ルリアやメシア運動を主導したシャブタイ・ツヴィなど、様々な神秘主義者が輩出された。神秘主義は「エルサレムは心の中にある」と考えるため、物理的エルサレムは本来関係ないことになるが、この流れからシオニズム的発想が出てきていることは注目に値する。しかし、オスマン帝国が弱体化すると、ユダヤ教徒に対する差別が強まることになる。

 

第8章 市民革命の時代とユダヤ人解放

 宗教改革によってプロテスタントが生まれると、ユダヤ教の再評価が進む。プロテスタントは聖書を重視するため、旧約聖書が見直されるのである。しかし、プロテスタントにとって旧約聖書における預言の実現は最終的な目的ではなく、あくまでイエスの再臨のために必要なプロセスに過ぎなかった。

 イギリスにおいて、ピューリタン思想の影響もあり、18世紀中ごろにユダヤ人解放令が出される。彼らはイギリスのコモンロー体系下で司法上の平等を獲得した。イギリスはフランスとの対抗上財政的才腕に優れたユダヤ人らを活用しようとしたのである。フランスにおいてもユダヤ人解放令が採択され、市民社会の理念の下、ユダヤ人も平等な市民の一人として、フランス人の一人として、位置づけられるようになる。これにより、「ユダヤ教徒」というアイデンティティは、あくまでフランス市民という概念よりも下位概念として位置づけられるようになる。また、ナポレオンはサンヘドリンという集会を招集したが、この集会において、ユダヤ人という概念は民族的同一性よりも宗教的同一性で括られた。ユダヤ「民族」とフランス人は両立しないが、ユダヤ「教徒」とフランス人は両立可能なのである。しかし結局、ウィーン会議においてユダヤ人解放は否定され、ヨーロッパ各地でユダヤ「民族」に対する攻撃(=アンチ・セミティズム)が台頭してくることになる。

 

第9章 ユダヤ啓蒙主義と改革派ユダヤ教徒

 フランス革命を導くこととなった啓蒙思想は、ユダヤ教徒にも大きな影響を与えた。こうして「ユダヤ啓蒙主義」の運動(ハスカラー運動)が起こることとなる。ハスカラー運動の基本的発想は、理性を強調し、理性と信仰の調和が可能であるという点にある。彼らはカント哲学の影響を受け、非合理的なものを排除して合理的な体系を作り上げようとした。

 ハスカラー運動は、現代ヘブライ語、改革派ユダヤ教徒を生むことになった。改革派ユダヤ教徒は、ドイツで登場したが、その後その中心をアメリカに移す。彼らの特徴は、キリスト教の影響をかなり受けていること、シナゴーグ内の男女隔離を行わないことにある。彼らは、共同体の絆の弱体化や、ユダヤ教的な体験の希薄化など、宗教を「個人の選択肢」にしてしまった。シナゴーグは来ても来なくてもよい集会所のような場所となり、「人々をつなぐ共同体としてのユダヤ教」ではなく、一種の「文化的装置としてのユダヤ教」となった。

 現在、アメリカのユダヤ教の最大宗派は改革派である。しかし、イスラエルの主席ラビ庁は改革派を正式にユダヤ教徒と認めておらず、改革派がイスラエルに移住すると正統派への改宗を迫られるという事態が発生している。

 

第10章 ハシディズム世界の盛衰

 本章は超正統派と呼ばれる人々に焦点を当てる。彼らはホロコーストの犠牲になり、現在では少数派になっている。ただ、超正統派という言葉には注意が必要である。まったく異なる二つの集団を同様に「超正統派」と呼んでいるのだ。一つは「ハシディズム」と呼ばれるグループで、ユダヤ神秘主義を信仰し、ラッベという聖者を崇拝する。もう一つはこれに反し聖者崇拝を否定する「ミトナグディーム」と呼ばれるグループで、聖書とタルムードに戻るべきという立場に立つ。

 ハシディズムにおいて重要なのは、「デブクート」と「ツァディーク」である。前者は神との合一を指し、後者は神に義を体現した者を指す。ハシディズムは、日常の中の平凡な事柄に神聖なものを見出す。個人の感性になじみやすく全ての人にわかりやすい教えであり、聖者であるツァディークはよろず相談所のような役割を担うようになり、ツァディーク中心の共同体が出来上がるようになる。

 一方、ミトナグディームはハラハーを重視するため、ハシディズムに強く反対した。しかし、次第に共通の敵=ユダヤ啓主義が現れると、両者の間に妥協が成立するようになる。両者から見て、ユダヤ啓蒙主義シオニズムは神を否定する脅威だったである。

 この時期、ユダヤ人の共同体はどんどん貧しくなっていった。特に東ヨーロッパでは貧困化が顕著であり、すでに生活が立ち行かなくなっていた。さらに追い打ちをかけるように、反ユダヤ主義が民衆、あるいは国家レベルで展開され、ユダヤ人共同体は悲惨な状況にあった。そうしたなかで日常のささいな生活の中に神がいるとするハシディズムは希望と慰めをもたらした。一方、シオニストからは、ハシディズムは状況が悪くなっている場所に留まり続け現実逃避しているという批判が起こった。

 

第11章 近代のイスラームとヨーロッパのはざまで

 オスマン帝国において、ユダヤ人共同体は、税金を払えば自治が認められた。税金さえ払ってくれれば、オスマン政府は共同体に口出ししなかった。こうして「イスラームの寛容」とも呼ばれる統治体系が長年続いていた。しかし、16C以降、ヨーロッパで人権、市民権、個人の平等といった観念が発達すると、次第にオスマン的統治システムは「遅れている」とみなされていくようになる。

 「イスラームの寛容」を享受したオスマン帝国内のユダヤ教徒らは、外の世界とのネットワークを有しており、大変柔軟な発想を持っていた。オスマン帝国の西洋化近代化に対して開かれていたし、近代的技術と信仰をうまく両立させることに長けていた。

 近代化を進めたオスマン帝国は、宗教的共同体に基づく統治体系から、「個人」に基づく統治へと舵を切り始めた。納税は共同体ではなく個人に課されるようになり、兵役も個人に課されるようになる。

 ヨーロッパは「血の中傷」などを契機に、オスマン帝国への干渉を強める。この事件は、元々はキリスト教において度々「ユダヤ教徒キリスト教の少年を誘拐してその血と肉で秘儀を行っている」という噂が立っていたことに起因している。このキリスト教の考え方がイスラームに輸入されると、オスマン帝国はこの噂を信じ、ユダヤ人迫害の動きを生じさせてしまう。これを非文明的で野蛮なイスラームによる攻撃だと非難したヨーロッパは、オスマン帝国への介入を強めることとなる。この流れの中で重要な働きをしたのが、「万国イスラエル同盟(以下、アリアンス)」である。彼らは、オスマン帝国内のユダヤ人を救うため、そして彼らにヨーロッパ文明を身に着けさせ再教育するため、活動を活発化させる。

 

第12章 万国イスラエル同盟の活動

 アリアンスは、フランスに拠点を置く教育ネットワークであり、オスマン帝国の各地に学校を設立した。ここではフランス語による教育がなされ、フランス的文化・思考を広めていった。アリアンスの発想は、「後進的オスマン帝国の野蛮さをフランス的な先進的知性で救い上げる」というまさに西洋中心主義的なそれであった。

 重要な点は、アリアンスの考え方・活動がシオニズム運動とは一線を画していたことである。アリアンスは、シオニズムのようなナショナリズムを重視せず、独立国家への指向は持たなかったのである。なお、シオニズムの歴史史観では、1880年代のアリヤー(パレスチナへの移住)を「第一波」移民と呼ぶ。「第一波」のアリヤーはポグロムを契機とした移住であり、「信仰」という観点からパレスチナに向かうのとは全く異なる、「ナショナリズム」的契機による移住である。シオニズムからみると、1880年代以前の信仰を理由とするアリヤーの歴史はなかったことにされる。しかし、実際には、1880年代以前、アリアンスによる農業訓練学校の設立など、パレスチナへの移住は進められていた。だが、アリアンスのそれはユダヤ人国家建設という目的を持ったものではまったくなく、彼らはフランス的な啓蒙思想に基づく活動をしていた。したがって、これらの活動はナショナリズム的運動ではないため、シオニズムの歴史から黙殺されるのである。

 このアリアンスの歴史は、リクード政権の成立後、徐々に「再発見」されていく。アリアンスが救済の対象としたのは、中東にいた人々であり、リクード党を支えた人々であったのだ。イスラエル建国後主流であった労働シオニズム、東欧・ロシアからやってきたシオニストの前に、中東にいたユダヤ人らは沈黙を強いられていた。しかし1970年代以降リクード政権が成立することにより、自分たちの伝統を再評価する動きが出てきたのである。実のところ、多数を占める中東出身のユダヤ教徒シオニストではなかったのである。シオニズムとは、あくまでヨーロッパで生まれた考え方であり、非ヨーロッパのユダヤ教徒はついていけなかったのである。

 

第13章 シオニズム運動の始動

 ユダヤ人解放令が出されたフランスにおいてもなお反ユダヤ主義が根強いことに衝撃を受けたヘルツルは、ユダヤ人は自分たちの国を持たねば解放されないとの思いを強くし、シオニズム運動を展開する。ただし、シオニズムといってもいくつかの潮流があり、ヘルツルは世俗的な政治的シオニズムを唱えるグループに位置する。ヨーロッパ列強の協力を得てユダヤ人国家を設立するという考え方を有する。彼らの信仰心は極めて薄く、その痕跡を探し求めるのは難しい。

 では、なぜ「シオン」に戻らなければならないのか、と聞かれると、それはあくまで宗教的な、「ユダヤ教」的な理由である。ゆえに、シオニズムは世俗的ナショナリズムとして転嫁されるが、イデオロギー的にはユダヤ教という宗教を媒介とせざるを得ないというジレンマが存在する。

 シオニズムの宗教性という面では、アルカライの思想が重要である。彼は伝統的なユダヤ教の発想を基に、メシアの到来によって祖国が建国されると考える。つまり、メシアの到来と「同時に」エレツ・イスラエルへの帰還が叶うという考えであり、ここでは信仰と祖国への帰還は一体化している。この考え方は、カリシャーによって微妙にスライドしていく。カリシャーは、エルサレムへの帰還を神の命令と捉える。彼の発想の背景には、当時ユダヤ人の迫害が緊迫した状況となり、身の安全のためにもパレスチナに行くことが正当化されたということがある。これがアブラハム・イツハク・クックになると、ユダヤ教徒たちが入植を進めることでメシア降臨を実現できるという考えに至る。ここでナショナリズムと信仰は不可分になる。なお、超正統派はこの宗教シオニストの思想を批判する。そもそもメシア降臨は神が決めることであり、人間が恣意的にその日を近づけるという発想は間違っているというのである。

 一方で、「精神シオニズム」と呼ばれる発想もあった。これはエルサレムへの帰還が何を引き起こしうるのかを考え、「我々が行ったら間違いなく争いが起きる。であれば我々が聖地を占有するのはおかしい、我々にとってエルサレムは心の中にある」という立場に立つ。しかし彼らの思想は理想主義的だとされ、一部の知識人グループに留まった。

 ヘルツルが属した「世俗的シオニズム」は、ヨーロッパの反ユダヤ主義に対応する文脈で出てきた。代表的人物であるモーゼス・ヘスは、ヘーゲル左派として知られる人物で、初期社会主義者であった。彼において聖地はナショナリズムの初期の形態とのつながりの中で位置づけられ、ユダヤ人の「民族」性が強調される。

 ヘルツルは、世俗性を前面に押し出し、国家建設を政治的に——大国や富裕層の力を借りて——成し遂げようとした。彼の頭を悩ませたのは何よりもポグロムに襲われたユダヤ人をいかにして救うか、という点であった。富裕層はヘルツルに協力したが、彼らは熱心なシオニストではなかった。あくまで迫害から逃れたユダヤ人がパレスチナで平穏に暮らせればそれでよかった。国家建設は全く意図していなかったのである。次第に富裕層の積極的支持が得られなくなると、ヘルツルはイギリスを頼ることとなる。ここでウガンダやアルゼンチンなどにユダヤ人国家を作る計画もあがった。ヘルツルにとってはパレスチナでなくともユダヤ人が今の状態から抜け出すための土地を作ることが最重要であった。しかし、結果的にはこれらもうまくいかず、ヘルツルは失意の中で亡くなった。

 他方、富裕層の支援とは異なる形で、若者がパレスチナに入植し農業活動を始めるという運動が発生した。これは「実践シオニスト」と呼ばれるグループであり、とにかくパレスチナで畑を耕し入植を続けることで、国を作っていこうという考え方である。

 

第14章 アリヤーと新旧ユダヤ共同体

 ヘルツルの発想は多分に啓蒙主義進歩史観に立脚しており、極めてヨーロッパ中心主義的であった。ユダヤ人国家はヨーロッパという文明をパレスチナに持ち込み、それによりアジアという野蛮を排斥していくという構図を持っていたのである。したがって、ヨーロッパ的でないものは排斥され、結果として「アジア的」な正統派ユダヤ教的規範を自己否定的に排除していくこととなる。また、これはイスラエルがヨーロッパの一部として建国されることにもつながっていく。

 繰り返すと、第一波移民は1880年代であり、ポグロムを契機としたものであった。最初は「モシャヴァー」(個人経営に基づく入植地)という入植形態がアリヤーを支えたが、彼らはシオニズム的考え方をそれほど強く持っておらず、労働力としてアラブ人を雇っていた。1904年からの第二派移民では、ロシア人中心の入植が進むこととなり、社会主義がもたらされる。彼らはユダヤ人による「自己労働」を唱えた。労働力はすべてユダヤ人だけでやっていくという方向が明確になり、ユダヤ人のみからなるキブーツという集団的農場が形成された。彼らはアラブ人を徹底的に排除し、第二インターナショナル的な社会民主主義的に労働者国家を理想とした。彼らはイスラエル労働党の前身となり、イスラエル建国以降の同国の主流派となっていくのである。

 

第15章 オスマン帝国からトルコ共和国

 オスマン帝国において反ユダヤ主義は生まれなかったため、シオニズムは強力な政治運動とはならなかった。オスマン帝国においてシオニスト運動は、ヨーロッパとは別の方向に向かった。つまり、ユダヤ人としての民族的アイデンティティを持つべきであるとしつつも、独立国家は必要ないという文化的シオニズムの考え方である。彼らは、国家建設以上に重要なことはユダヤ人の民族的自覚を持つことであり、エルサレムをその精神的な中心だと考え、国家はその後に自然についてくるものと考えた。つまり、パレスチナに住むアラブ人と衝突するものではあってはならず、共存すべきであるというのが文化的シオニストなのである。また、この考え方は、対アラブのみならず、トルコ・ナショナリズムの考え方とも親和的であった。民族としての「トルコ人」性が強調されるようになる中で、文化的シオニズムは「ユダヤ教徒でありトルコ人である」ことが可能であると考えたのである。

 ウィルソンが民族自決権を提唱すると、それがユダヤ人にも適用されることになり、ユダヤ人が国家を持てる可能性が出てくることとなる。だが実際、この段になって多くのユダヤ人はアメリカに移住した。多くのユダヤ人にとって、向かう先の選択はイスラエルだけではなかったのである。

 

第16章 両大戦期の中東(1)——パレスチナ

 第一次世界大戦に突入すると、イギリスは中東において苦戦を強いられる。1915年のガリポリの戦いでオスマン軍の敗北を喫したイギリスは、アラブ人を味方に引き入れオスマン帝国と戦う戦略を立てた。一方、イギリスはスエズ運河防衛という観点からエジプトとパレスチナの確保を重視し、そのためパレスチナからフランスの影響を排除することを意図した。そこでバルフォア宣言によってパレスチナユダヤ人の民族的郷土を建設する約束をした。この宣言に基づきイギリスはパレスチナ委任統治を実施したわけだが、第二次世界大戦の直前に同国は方針を180度転換する。対ドイツにおいてアラブ人の協力を求めるため、アラブ諸国との同盟を模索するのである。

 バルフォア宣言は、今は「宣言」と言われているが、実際にはイギリス外務大臣のバルフォアがイギリスのユダヤ人団体の長であったロスチャイルドにあてた「書簡」であった。この書簡においてバルフォアの肩書「外務大臣」の言葉はなく、イギリスの公文書であると言えるか否かはかなり微妙なところであるという。バルフォア宣言は、1917年時点ではまだ何ら公的意味を持っておらず、単なる個人的な手紙という位置付けであったのだ。ところが、この手紙中の表現が国際連盟委任統治規約に一字一句改められることなく組み込まれると、公的文書として国際的に承認されることとなる。

 当時のパレスチナ委任統治領であって独立国ではないため、その運営はイギリス植民地省が担当した。この方針について、1922年、当時植民地省大臣であったウィストンチャーチルは「チャーチル白書」を発表した。この白書は、「パレスチナ」というアラブ市民とユダヤ市民の両方がいる国家を想定し、彼らが「パレスチナ人」としての国籍を有することを定めた。また、アラブ人とユダヤ人の両方を立て、そのバランスに配慮した内容とし、イギリスが中立の姿勢にあることを強調した。

 しかし、人口的に圧倒的少数のユダヤ人とアラブ人が対等であるということには、当然アラブ人の側から不満が出た。この不満は1929年の「嘆きの壁事件」で爆発し、各地に暴動が広がった。この暴動の調査のために、ショー委員会などの調査団が派遣された。これらを受け、イギリスは「アラブ人とユダヤ人がともに住むという政治的な枠組みはもはや維持するのは無理だ」と結論付けた。イギリスはチャーチル白書の限界を認めざるを得なくなり、二つの国家に分けるという方向へと進むこととなる(ピール報告)。

 1933年のナチスドイツ成立はユダヤ人にとって大転換点となるが、実はこの時期にナチスシオニストの協力が行われた。ドイツは世界恐慌から立ち直るためにユダヤ人にドイツ製の農機具を輸出し、貿易相手を確保したのである。この恩恵を受けたドイツ系ユダヤ人は多くの財産を手にし、パレスチナに移住した。彼らの存在はパレスチナの都市化を進めることとなり、結果として、労働シオニズム的なパレスチナの発展ではなく、中間層による都市生活のモデルが広がることとなる。彼らはジャボティンスキーの修正主義を支持したが、労働シオニズムと修正主義の対立は、この後さらに激化していくこととなる。

 こうしてパレスチナの都市化が進むことにアラブ人は危機感を覚えた。自分たちがマイノリティとなってしまうのではないかとの懸念を抱いたのである。アラブ人の中には武装闘争を試みる者もおり、これをコントロールすべくハーッジ・アミーンはアラブ高等委員会を結成し、ゼネラルストライキを決行した。しかし、このストの間にユダヤ人は公共部門の空きポストに入ってしまい、委任統治政府におけるアラブ人の影響力は低下してしまう。

 アラブ人組織はストライキを続けていたが、イスラーム最高評議会だけは動いており、宗教に関わる公的組織だけは機能していた。結果としてパレスチナのアラブ人の政治運動は、イスラーム的な方向に流れ始めたのである。

 アラブ人とユダヤ人の対立の激化・長期化を受け、前述のようにイギリスはピール報告を出し、パレスチナユダヤ人国家、アラブ人国家、国際管理地に分けるという提案を行った。アラブ人はこの分割案に猛反発し、反発の矛先をユダヤ人ではなくイギリスに向け始める。しかし、これをイギリスが鎮圧する過程でアラブ人側の指導者ハーッジ・アミーンが亡命してしまったため、アラブ人側は統一の指導者を欠き、ばらばらの状態に陥っていくこととなる。

 だが、第二次世界大戦がはじまると、イギリスは方針を180度転換する。ナチスドイツの反ユダヤ主義は明らかであったため、対ドイツで見たときにユダヤ人がイギリス側につくのは明らかであった。であれば、ユダヤ人は放っておいてアラブ人と同盟を組むことでパレスチナの安定が得られると考えたのである。

 この方針転換の際(セント・ジェイムス会議)に、イギリスがアラブ諸国の代表を呼んだことは、現在に至るまで大きな影響を与えている。ハーッジ・アミーンが亡命してしまったこともあり、イギリスはパレスチナのアラブ人だけと話しても解決しないだろうと考え、より広いパンアラブ的な枠組みで考えようとしたのである。つまり、第二次世界大戦前の段階で、イギリスはアラブ諸国パレスチナ問題に関わるお膳立てをしてしまったのである。

 この後、イギリスは「パレスチナ白書」を発表し、バルフォア宣言に基づくパレスチナ宣言に基づくパレスチナ政策を事実上破棄したのである。

 

第19章 ホロコースト生存者とイスラエル建国

 イギリスとの協力関係が崩壊したユダヤ人は、アメリカと手を組み、イギリスに対する武装闘争を始める。シオニスト指導部はアメリカでパレスチナに「ユダヤ人共和国」を建国するというビルトモア綱領を採択するのである。トルーマン、そしてアメリカ政府は、戦後のユダヤ人の悲惨な状況を改善することに努め、難民キャンプの環境改善、パレスチナへの移難民受け入れを求めた。これに対し、アラブの側はアラブ連盟を結成して対抗したが、この動きを助長したのはイギリスであった。アラブにも一体になってパレスチナ問題に対処するための組織が必要だと助言したのである。

 こうした中で、イギリスはパレスチナを支配する意欲を失っていく。ユダヤ人は親米的になり、対英武装闘争を行っている。かといってアラブ人は親英的になったわけでもない。イギリスは結局、パレスチナ問題の解決を国連に丸投げしてしまう。こうして国連パレスチナ特別委員会は報告書を作成し、イギリスによる委任統治の終了を勧告した。そして多数派はパレスチナユダヤ人とアラブ人の国家に分割し、聖地を国際管理地域とする案を勧告したが、イギリスとアラブ人は反発する。この勧告はかつてのピール案と全く同じであり、また同じ結果が繰り返されるであろうことは容易に予想されたためである。

 結局、この後の国連総会でイギリスは棄権し、パレスチナ問題の責任を完全に放棄した。結果として、分割決議案が出された後、シオニズム武装組織は次々と国家予定地に繰り出し、第一次中東戦争が始まった。イギリス軍はイギリス人の自衛のためのみに派遣され、アラブとユダヤの対立への一切の介入を控えた。こうして、パレスチナにおけるアラブ人とユダヤ人の間の衝突を阻止すべき責任主体はなくなり、パレスチナの政治的秩序は完全に崩壊することとなったのである。

 

 

*1:この「苦難の神義論」は、ウェーバーが『宗教社会学』で取り上げている。

*2:したがって、キリスト教の「三位一体説」をユダヤ教徒ムスリムは拒絶した。