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本の要約、メモ、書評など。

【読書メモ】竹田青嗣『現象学入門』

竹田青嗣現象学入門』(1989年、NHKブックス

 

 

第一章 現象学の基本問題

・近代哲学における根本問題は、「この石ころと私の見ている石ころは同じものか」という問題=主観と客観は一致するか、という問題

デカルト…主観と客観の間を架橋するのは神である

・カント…人間の理性は客観それ自体を認識できない=人間の理性は現象界でのみ有効

ヘーゲル…人間の認識は成長しうる=主観と客観はいずれ一致する絶対知に行き着く

ニーチェ…客観は存在しない、ただ現実についての我々の解釈があるに過ぎない

 

第二章 現象学的還元について

・「還元」…主観-客観図式を取り除くための作業

・客観という前提から主観の正しさを判断することはできない→しかし人間は「現実」と「夢」の区別を心の中できちんとつけている→すると人間は、ただ主観の「内側」だけからある「正しさの根拠」をつかみ取っている、と考えるしかない

・主観と客観の一致は確かめられないので、主観の内部だけで成立する「確信」の条件を確かめる=これが現象学の核心

・すなわち、「なぜ人間は主観の中に閉じ込められているのに、この世界が存在していること等様々なものを『疑い得ないもの』として確信しているのか」

・なので、あえて主観から出発(=独我論的主観)し、独我論的主観の中だけで考える

⇒「還元」=主観客観図式前提では認識問題は解けない→そうである以上、論理上は独我論的主観の立場から出発するほかない

 

フッサールは原理のための原理(=方法上の基礎)として、「一切の認識、判断の一番底には『原的に与える働きをする直感』がある」という

・つまり、人間の理性はあらゆるものを疑う権利を持つが、あらゆるものを疑った果てに、ただ一つの種類の「確信」が原理的に不可疑なものとして残る→この残った者がいわゆる「確信の底板」であり、これを疑うことは無意味である

・この「原的に与える働きをする直感」は知覚直観と本質直感から成る

・知覚直観…さまざまな判断の基礎となる「原的な所与」

 ―人間の主観は、想起、記憶、想像などの意識表象を持っているが、そのうち知覚は、意識によって遠ざけることができない=知覚は意識から自由となり得ず現れ出る

 ⇔知覚以外(想像など)は意識の自由のままに恣意的に呼び寄せたり遠ざけたりできる

・自我を超えて自我の自己原因ではないものとして現れるこの知覚こそ、自我に、自我ならざるものが確かに外側に存在することを告げ知らせる唯一の根拠であり、対象の妥当の源泉になる

・すなわち、主観に不可疑性を与える根本の条件は、知覚という主観にとって自由にならないものの存在に他ならない

・「本質直感」…原的な意味の与えられ

・事実と本質の区別…事実は個別の偶有的なもの、本質は存在の必然性に関わり、言葉の意味のこと

・どんな個別事実も本質直観[1]に転化される、一方で本質直感は個別直感なしで想起・記憶のうちで成立する

・本質直観は「原理的に固有のまた新しい種類の直感」であり、「個別直観」と並んで言的な直観

・世界像の三つのランク…日常世界・伝聞の世界・神話の世界

 ―客観的に神話の世界は決して実際に確かめられない

 →主観的に考えると…

(p. 64 表1)

  現象学的(=主観的・内在的意味系列)として…

  ・知覚=意識の中の心的諸表象のうち意識の恣意性にとって彼岸であるような表象

  ・本質=個別事実においてそれをなんらかの言葉で呼ぶとき、その言葉が主観の中で持っている普遍的な意味様式

  ・世界=実在、価値の地平として現れ、唯一同一の外在としてまた自分がその中に存在するという確信を絶えず与える対象存在のノエマ

・たとえば我々は石ころを見ているとして、この石ころが私に与える形状・重さ・感触などは私には自由な解釈を許さない。それは向こう側から意識にやってきて、その恣意性を捻じ伏せるように自己の諸性質を告げる→一方隣で石ころを見ている人とも全く違った石ころが見えているわけではないことを必ず直観している

・つまり、私は他人と同じものを感覚しているという直観の不可避性がある→これこそが人間の共通了解を生じさせる

・人間の認識を構成する諸要素の内で、一体何が人間にとってもはやそれを疑う動機を持てず、端的な不可疑性として現れるような条件となるのか=「知覚」こそ意識の自由にならないものでその唯一の源泉だとされるが、ここでひとつ問題が

・例えばリンゴを見ているとき、そのリンゴがリンゴであるという確信が成立するためには、知覚のみならずあるレベルでの概念(知)が必要となる

・すると、単なる知覚直観の他に、どうしても本質直観(=物事に含まれる知・概念)を直観する働きを考えざるを得ない

・この本質直観も、知覚直観同様意識の自由に関わらず主観にあらわれるものであって、意識が自発的・意図的に行うものではない=本質直観も物の知覚と同様である

・つまり、物の「知覚」も物の「意味」も、普通考えられているような実在者と抽象という分けられ方ではなく、二者ともにいずれも意識の自由を超えたものとして意識に疑い得ないものの確信を与える働きをする

 

第三章 現象学の方法

・我々が普段持っているごく自然な世界像を「自然的態度」と呼ぶ

・この「自然的態度」(=主観客観図式を暗黙裡に確信)は三つの特徴がある

 ①空間時間の拡がり、その唯一同一性、それが原理的に未知性を含む

 ②様々な価値を孕んだ、またそれゆえに実践的な働きかけの対象として存在

 ③この唯一の世界の中に、私は同じ心を持った他者とともに存在

・これらの自然的態度の定立を徹底的に変更し、そこでの素朴な確信をエポケーする

 =「還元」

・徹底的な還元の末に残るもの…「純粋意識」

・この純粋意識は、ただ人間の経験や世界像一般を可能にする一番基礎のはたらきそのもの⇔コギトのように実在するものではない

・意識内容を常に統合して一つの経験へとまとめあげる自我のはたらき=純粋自我

・とすると、現実の確信を構成するものは、①意識に与えられる対象的与件(=意識内容)②これに対する意識の関係づけのはたらき(純粋自我)

 

ヘーゲル…第一視線=直接的・実践的視線、第二視線…対象化・客観化された視線、第三視線=両者の弁証を見守るヘーゲルの視線

フッサール…第二視線こそがドクサ

→還元=このドクサをエポケー、そしてドクサの底を確定しドクサが積み重ねられる構造を取り出すことを目標とする

 

・知覚は知覚事物(机)を決して一挙に全体として与えることはない。知覚は常に知覚事物のある一面を、次々に異なった相で与えるだけ=「射影」

・にもかかわらず、意識はこれを同一の事物(机)の知覚として受け取っている

・これはなぜか?—「コギト―コギタチオ―コギターツム」

  =我々は意識に与えられているある素材の一部分から、ある事物の妥当を日常的に行っている。この日常具体的経験の構造を示す図式。

 ―コギト=意識…意識経験というトポス

 ―コギタチオ=意識作用…机を見るという意識のはたらき

 ―コギターツム=意識内容…一つの机を見ているという事象の経験それ自体

・コギタチオなしでは人が机を見るという経験は生じ得ない、死か我々は、そうしたものには無意識で、むしろ一挙に、かつ端的に端的経験(コギターツム)として与えられている

・つまり、ここにはドクサがある。「一つの机」をみているという現実経験はすでに、最小限のドクサを含んでいる→人間の具体的経験は、「多様な知覚」という素材から意識の「志向的統一」というはたらきを通して構成されたもの

 

・つまり、具体的に経験される事物は、意識に直接与えられている「いまここにある知覚」とぴったり重ならない=原的な体験を超えた「構成された」経験

・原的な体験にあたるものが「内在」、構成された事象経験が「超越」

 →「超越」は一種のドクサとして構成されたもの、「内在」としての知覚体験は、言的な体験であり、いわばそれを疑うことに意味のないような「不可疑性」の根源

・具体的に…

 超越…たとえばリンゴ。目の前にリンゴがあるとして、これが本物のリンゴであるかどうかはどこまでも懐疑しうる(化学物質によって作られたリンゴかもしれないなど)。すなわち必ず絶対的な確証を超えた可擬性が残る。=つまり具体的なものの経験にも最低限のドクサがつきまとう

 内在…一方リンゴを食べて「おいしい」と感じたとする。この「おいしい」という感覚自体は「おいしくなかったと感じたかもしれない」という可疑性を残さない。たとえ食べたものがリンゴによく似た化学物質だったとしても、このおいしいという感覚は絶対的なものとして残る。=対象に付きまとう意識の意味や感じの満たされの側面、人がそのように感じたという初源的事実が「内在」

・ということで、ここまで、まず、具体的な知覚直観こそが不可疑的なものの根であると考え、さらに、知覚経験から「超越的知覚」という鍵的なものを排除。最後に残されたのが私はあるものを赤いと感じたという知覚の「内在性」

・さらにこの「内在性」も疑える?できない。それ以上疑い続ける動機を持ち続けられない、もはやそれをそれ以上疑うすべを持たない=懐疑の能力と動機の限界

・内在こそがあらゆる判断や認識の成立する源泉

 ・現象学における自我[2]…無意識・身体・他者に還元されることはできず、むしろあらゆる超越項を還元する動機そのもの。またさまざまな超越項の何であるかを確かめ規定する根拠それ自体

 ・ノエシスノエマ構造…コギタチオ―コギターツムの現象学的言い換え

 ノエシス…意識に現れた知覚や記憶などの所与を素材として、そこに志向的な意味統一を与えて一つの対象存在を構成する意識のはたらき

 ノエマ…この構成された対象性のこと=志向的相関者

・我々はリンゴの一部分を見てこれはリンゴだと「リンゴ全体」として直観するのだが(これがノエマのリンゴ)、このノエマとしてのリンゴは実は意識に現に与えられている所与とは言えない。現に与えられているのは、赤い色や丸い形などの諸表象だけである

・このようなノエシスノエマ構造は、意識による事実妥当の本質構造であり、人間のあらゆる経験は、この「現に与えられている所与—その相関者としての妥当像」という構造の中で構成されたものに他ならない

 

第四章 現象学の展開

―『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学

・ヨーロッパ哲学の理想の挫折の原因は、主観客観問題が認識論において持っている根本的な問題を誰も明瞭に明かさなかったことにある

・では、なぜ近代以降主観客観図式が誰でもが抱く自明な世界像になったのか

ガリレイの測定術による「自然の数学化」がまず時・空間の延長に関する計測「基準」の完全化のプロセスからこれを理念化

・この理念化を感性的であいまいな性質(感性的性格)にも広げようとする=感性的性格を因果関係として計量化、数式化、客体化

・さらに、社会科学、心理学、歴史学などの人文科学にも、仮説と実験の繰り返しによって世界の客観的な因果関係を確定できるという理念をそのまま持ちこむ

→「人間の日常の経験は主観的で相対的な世界であり、これに対して計量化され客観化された世界こそ確実で絶対的な世界」—この両者の対立は歴史的に作り出されたものだと言える

・さらに、「自然の数学化」は世界の秩序の総体・世界全体の真を客観的に認識できるという「世界の総体の数式化」へ=世界の一切の事象は、厳密な因果関係の法則性をもって存在する

⇒ここまでの近代実証主義理念は、「定式化された抽象の世界」と「具体的な生活世界」の関係を逆転させる

 =もともと測定術(=手段)生活上の必要のために(=目的)行われた

 →が、「はじめ生活の便宜として現れた科学は、やがてある因果の体系を無限に押し広げていくことを自己目的と考え、そこでは生活世界とは、この目的のためにさまざまに検証されるべき対象(=手段)にすぎないもの」とみなされる

・この倒錯は、「国家の価値が人間の価値を規定する」という形でみられるように

・この倒錯の克服には、①倒錯の意味と動機をはっきりとつかむ②人間の理性はどのような対象に使われるべきか

 =理性それ自体は無用なものでない。ただ理性が向けられるべき対象が誤っていただけ→この誤謬の原因は主観客観図式

実証主義の問題は、哲学的には「心身二元論」にある

・この二元論の問題は、認識を「カメラ図式」的に行うため、人間の自由や道徳といった問題が把握できないこと、元々異質な原理をどうつなぐか、という点にある

 

―『デカルト省察』における間主観性——他我経験の現象学

・本来最初の他なるものは、「他我」である

 ―つまり、客観世界の妥当が他者妥当の前提なのではなく、その逆

・「超越論的還元」…自然的世界像から出発→還元→純粋自我(超越論的主観)の抽出

 ⇔ここでは、これを逆からやる

  =純粋自我から出発→自然的世界像の妥当の構成へ[3](「形相的還元」)

・他人とは、私と同じような主観をもっており、両者は唯一同一の世界の中に同時に共存している(=相互主観的に存在している)

・他我が私と同じ主観として存在し、かつこの他我も私と同じく唯一同一の存在を確信しているはずだ、という「私の確信」=間主観性[4]

・※そもそもなぜ私と他我の間主観性の成立が可能かという問題が重要なのか

 =独我論的自我という前提から出発しているので、私の世界と彼の世界の同一は証明できない→この確信のためには、「私にとって彼の実在が妥当でされること」「私にとっての世界と彼が持っているはずの世界の共通性、同一性の妥当」が必要

・他我の身体-心を自分の身体-心の妥当との直接的類比として妥当することによって、こ

の身体同士の共属性を直感し、そこから、さまざまな物的対象を彼と私にとって同一の

ものとして受け取る[5]→他我の認知こそが客観世界の実在という妥当の前提であってその逆ではない

 

―生活世界の現象学

・危機=人間世界と学的な理念的世界の関係の転倒→「生活世界の現象学」へ

・超越論的還元…自然的態度を還元し純粋意識や志向的統一の構造を示す

 生活世界の還元…自然的態度[6]を還元し純粋意識などの構造を示すのみに留まらず、「構  成の意味本質を解明すること」に目標が向けられる

・生活世界は「学に先立って、人類にとって常に存在していた」はず

 →生活世界と学的世界を内在と超越の関係に重ねて考える

⇒学的世界は本来様々なドクサに覆われたフィクションの世界だが、その源泉としての生活世界の領域は、誰でもが持っている主観性の構造の領域であり、だからあたかもドクサなしにひとつの目前の対象を見て取るように、そのありようをあるがままに見て取る(本質観取)ことができる対象領域である

 =主観客観図式によってではなく、「生活世界」を普遍的な学的考察対象とすべき

・生活世界では、人間は常にすでに自分と、自分の周りの世界の存在確信の中にある。さらに、人間存在は「目覚めている」限り、それを意識するしないに関わらず、「常に何らかの形で」周りの世界に実践的な関心を向けているような存在

 =事物は実践的関心によってのみ存在する

  ―主観客観図式によると、事物の存在は「それ自体あるもの(客観)」と「人間の関心による付け加え(主観)」から成るが、現象学では、人間の生活世界の実践的関心に応じてその都度妥当を得る「志向的相関者」として理解する

 

まとめ

現象学は、「何があるか」ではなく「いかに主観的に妥当しているか」「なぜ客観世界や意味、価値の世界がいまあるようなものとして人間にとって妥当し続けているか」の解明

・わたしたちのとっての一切の世界事象を「主観の構成」という地平に還元、経験を通し て事象が意味価値の秩序として人間に現れる、この根底には意識の志向的意味統一の構造がある

・客観信仰、普遍信仰の意味を、ひとたびひとりひとりの人間の具体的な生という場面に置き戻して考える

 

[1] 知覚直観=個別直観?

[2] 自我=内在?

[3] 詳しい順序はp. 129のA~Dの流れを参照。特に他我の問題はCとDにあたる。

[4] 関係を指すのでは決してないことに注意。

[5] 詳しい流れはpp. 135-136の1~4を参照。

[6] 自然的態度と生活世界は似ているように思われるが、前者は単に人間のごく自然な世界の見え方を指すのに対し、後者は、近代の過程で曖昧で相対的な世界という意味上の逆転を被ってしまった日常世界、しかしじつは様々な理念的な意味形成の土台であり、人間の現場であるような世界、という意味合いを含んだものとして理解される。