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本の要約、メモ、書評など。

【読書メモ】斎藤純一『公共性』

斎藤純一『公共性』(2000年、岩波書店

 

 

※用語の確認

・公共性=①公の(公共事業など)②共通の(公共の福祉など)③公開の(公園など)

・公共圏(publics)=一定の人々の間に形成される言論の空間

・公共的空間(public sphere)=様々な公共圏がメディアを通じて相互に関係しあう、言説のネットワーキングの総体

 =公共圏…「特定の場所を持った」「特定の人々の間での」言論空間

  公共的空間…「特定の場所を超えた」「不特定多数の」空間

 

第一章 「公共性」の位置

・「国家による」公(オオヤケ)性から「市民社会」としての公(オオヤケ)性へ

 =国家から区別される「市民的公共性」の生成

・一方で「市民的公共性」は政治過程に十分な影響を及ぼせず

・ここから別種の「公共性論」の台頭へ=「国民共同体」としての公共性

 =ネオ・ナショナリズムとしての公共性

  全くもって本来的な意味とは相容れない

・公共性と共同体の違い

 =公共性は、①だれでもアクセス可能②価値や意見の相違がある③人々の間にある出来事への共通の関心をめぐるコミュニケーション④一元的・排他的帰属を求めない

・公共性と国家・市場の違い

 ―市場との違い…市場は、価値は同一(=金銭)、非人称的

 ―国家との違い…特に民主的国家で、公共性において形成される人々の意志を正当性の源泉とする国家の場合は込み入った事情に

 

第二章 公共性と排除

・公共的空間は開かれているのにも関わらず、排除と周辺化の力が働く

 ―排除…これまで女性、人種、階級など。現在でも残るのは国籍による排除

    →国籍非保持者は選挙権を有さないのは妥当か?

     さらに国籍保持は血統主義の国では困難を伴う

 ―インフォーマルな排除…「言説の資源」の非対称性の問題

  =経済格差による教育の不十分さ、情報分析能力の欠如、さらに時間の欠如など

   +言説のトーンや規範的要求[1]

・こうして(注1)「私的なもの」とされてきたものを「公的なもの」へと再定義するのはある程度の勇気と覚悟を要する=「対抗的公共圏」

 

第三章 市民社会と公共性

ハーバーマスの「市民的公共性

・公共性の現実はただ操作的な公開性に受動的に甘んじているという現状

・この現実に対して、18Cの市民社会がはぐくんだ公共性の潜勢力をよみがえらせようとする=この18Cの市民社会はカントが提起した啓蒙の理念を有している

・この啓蒙は「自ら自身の<悟性>を用いる勇気を持て」という標語を持ち、自立的に思考する力を獲得する

・この自立的思考は公共性の空間で初めて育まれる

 =自立的思考は自由を必要とし、この自由は人々が互いに自らの思考を公然と他者に伝える自由。公衆は互いを自立的思考に向けて触発しあう

 =思考を他者に伝える自由…理性の公共的使用

・さらに「批判的公開性」…不正を認識するための批判的尺度としての公開性

⇒カントの「理性の公共的使用の自由」(=コミュニケーション的自由)と「批判的公開性」を軸にハーバーマスは論じる

 

・「市民的公共性」=公権力に対する批判的領域、政治権力の外部に位置し、それを外側からチェックする

・「操作的公開性」を「批判的公共性」に対置

⇔批判①実質「市民的公共性」は市民層の公共圏であり、より劣位の公共圏(=人民的公共圏)を抑圧している

   ②市民的公共性からの女性の排除

   ③対内的に市民的公共性は等質の一次元的公共性であった

   →公共的空間の権力の非対称性と価値対立の契機を取り除いてしまっている

⇒『事実性と妥当』において政治的公共性の担い手は「組織化された集団の成員」から「自発的に結社に集う諸個人」に(組織によるデモクラシーから結社によるデモクラシーへ)

 =国家の活動に対する批判的な監視から、討議を通じた積極的な政治的意思形成、政治的アジェンダの設定へ

 =政治的公共性へ…政治的公共性は、様々な公共圏が「コミュニケーション権力」を形成し、それを政治システムに向けて出力する空間として位置づけられる

  ―ここでの「権力」は、経済的権力などからではなく、「コミュニケーション権力」のみを発生源としなければならない

  ―一方で「コミュニケーション権力」自体が意思決定の権力となるべきではない

  ⇔ハーバーマスはこれがポピュリズムに陥る可能性を危惧

 

・公共圏のあるべき姿を「合意を形成していくための討議の空間」として捉える

・「討議」=「より良い論拠」の持つ力以外の権力の作用が無効にされているコミュニケーションの反省形態

・討議の参加者は、より合理的と思われる論拠のみを受け入れ、それを自らの意思形成の

動機づけとするのでなければならない

 →そしてやがては参加者の間に一定の合意が形成されるはずで、道徳規範の妥当性はそうした合意によって根拠づけられねばならない、とする

 →そこでは既存の「合意」は批判的に解体され、これまで通用してきた規範の自明性は括弧に入れられる

・ここでは「合意の批判的解体」と「合意形成」は果たして並行するのかという問題

・さらに、何をもって合理的とするか、の基準そのものが問題化

・また、討議の過程で差異化を抑圧しかねないという批判も

 ―コミュニケーションには様々なモードがあるということを認識すべき

 

第四章 複数性と公共性

アーレントの公共性論

・「現われの空間」としての公共性…人々が行為と言論によって互いに関係しあうところに創出される空間、人々が集うところならどこであれ潜在的には存在するが、それはあくまでも潜在的にである

アーレントにおける「何」と「誰」

 ―何…ある人のアイデンティティ

    →こうした属性、社会的地位によって人物が描かれるとき、その人は他者と共約可能な位相にある

    →ここではその人は他の人々と交換可能

   =この空間を「表象の空間[2]」と呼ぶ

 ―誰…その人一人一人のあり方

    →この「誰」としてのあり方を交換不可能な仕方で示すことの出来る唯一の場が公共的空間

   =この空間が「現われの空間」…他者を自由な存在として処遇

⇒「誰」の評価は一般的な尺度による還元は不可、その意味で「現われの空間」は私が所有し得ないものへの関心によって成立する=これは美的尺度による評価しかない

 

・共通世界としての公共的領域

 =私たちの「間」にある世界への関心が公共的空間のメディアに

アーレントのいう「世界」の二つの意味

 ①「製作」によって作り出される人為的世界

 ②「行為」によって形成される人間的な事柄の世界、人間世界の「網の目」

・②の「共通世界」の公共性成立の条件

 =①世界に対する多様なパースペクティブが失われていないこと

   ⇔全体主義や消費主義による「均整化」

  ②人々がそもそもその間に存在する事柄への関心を失っていないこと

   ⇔「生命への関心」しか持たない場合、世界への関心の喪失

・「世界への関心」、他者への関心の中で、諸々の意見が交換され、より「視野の広い思考様式」を手に入れることができる

 

・「社会的なもの」批判

 =社会は行為[3]の可能性を排除し、その代わりに無数のさまざまな規則を課す

  ―「規律権力」(フーコー)としての「社会的なもの」

・ここで問題となるのが、「社会的なもの」を完全に脱政治化してしまい、公共的領域と私的領域を硬直的な二分法で切断してしまっている=政治は完全に公共的空間の中に囲い込まれている

・一方で「行動」がこの壁を打ち破る可能性も

・「社会的なもの」は「行動の空間」であるだけでなく、「生命・生存の空間」でもある

・「政治の空間」がこの「生命の空間」としての「社会的なもの」によってのみこまれてしまったとする

・生命に関する問いは公共的空間から締め出すべき

 ―生命は「同一性」を有し、複数性と相容れない

 ―生命は誰にとっても必然、それ自体が問題とならない

 ―「生命の必然性」は公共的空間における自由と対称

⇒公共的空間は非共約的な空間、生命とはかかわりを持たない純粋な自由の空間

アーレントの問題=①同一の生命過程が万人の身体を同じ仕方で貫いているという想定②生命の必要は政治とは全く無縁であるという想定

 

第五章 生命の保障をめぐる公共性

・生命のニーズ…人々それぞれの解釈があり、その解釈には言説の政治が介在している

 =決して自明なものではない

 →公共的に対応すべき生命のニーズをどう解釈、定義するか…?

  =「ニーズ解釈の政治」(フレイザー

   ―公的に対応すべきニーズとして解釈する言説と、「個人・家族」によって充足されるべきものとして「再度-私化する」言説の間の抗争

   →後者=公的対応を求めるニーズを家族や親族の手によって満たされるべきものとして定義することで、そのニーズを再び公的空間から追放する脱-政治化の戦略

   =私的/公的なものの境界線をめぐる抗争

・ここで重要となるのが…「言説の資源」の分配

 =よくある事態として、最も切実な必要を抱えているはずの人が「ニーズ解釈の政治」に参入する資源に最も乏しい→自らのニーズ解釈を自分で提起するための資源が欠けている人々をいかに考えるか

・新しいニーズ解釈=新しい権利へと翻訳される

 ⇔現実には、すべての提起されたニーズ解釈が翻訳されうるわけではない

  =そもそも権利に翻訳しがたいもの(愛情、尊敬、思いやり等)

・しかし、これらの「善意」は繰り返し切実なニーズとして不断に確認されるべき(たとえ制度上の対応はかなわないとしても)(イグナティエフ

・一方でイグナティエフは、制度化された福祉国家における「見知らぬ人たちの間の非人称の連帯」を評価

 =人称的な関係に付きまとう依存・従属の関係を廃棄できる

  強制的連帯のため、自発的ネットワークが排除する人々も包摂

  ⇔しかし、やはり権利として翻訳されているニーズのみ

・権利として要求できるニーズとできないニーズの区別

 =リベラリズムにおいては、「国家が強制力をもって実現すべきものは、人々の生にとって共約可能な価値」に限定

  ―共約可能性=公共的価値の実現

 =コミュニテリアニズムでは、特定の文化的伝統を背景に持つ共同体の内部では共約不可能な価値は存在しないとする(=「共通善」)

  →共同体内部の人々の複数性を抑圧

 =リバタリアリズムでは国家の一切の福祉的再配分を拒否

  ⇔リベラリズムでは所得や富を公共的価値の内容に含まれる

→公共的価値の定義は多様

・アマルティ・センの構想=公共的価値を物質的な財[4]としてではなく「財と人の関係性」においてとらえなおす

 =公共的価値を「基本的な潜在能力」とする

  →ニーズとgoodsへの必要としてではなく、doing and beingsへの必要として再定義

  →このアプローチでは、貧困は財の欠如としてではなく基本的な潜在能力の「剥奪」として把握される

 

<社会国家の変容>

ロールズの正義原理(特に第二原理)…格差原理、機会の平等

 =社会国家の理念の道徳的正当化

・社会国家は互いに見知らぬ人々との間に形成される「想像の共同体」

 →この間で連帯感を感じうることが社会国家の女権

  =この連帯感は国民的(集合的)アイデンティティ

   ―ナショナリズムと社会的なものの結びつきへ(社会的連帯=国家的連帯)

・しかし現在進行する社会的/国民的連帯の喪失

 -脱社会国家化、「一つの国民」という表象の崩壊

  =二分化(「経済的に生産的なアクター」と「非生産的で福祉に依存するアクター」)

  →前者は社会的連帯のためのコストを負担することへの抵抗を強める

  →リスクの集合化がもはや非合理的であるとみなされ、リスクの脱集合化とそれの個人負担が合理的だとみなされる

   =能動的な個人による「自己統治」、中間団体によるより具体的な顔の見える連帯→これが「ネオリベラリズム」と「コミュニテリアニズム」

福祉国家から能動的な活力ある社会へ

 =労働市場から排除された人々は「自己統治能力の欠いた」「準犯罪的社会層」とみなされるように

  →彼らはできるだけ低コストで一括して管理される(=リスク管理の対象)

  =社会的空間の「分断」へ

 

<社会的連帯の再生をめぐって>

・以上=社会的連帯の空洞化、人々の社会的空間的分断化

・これに対して①ボロボロになっている社会的連帯を再びナショナリズムのセメントで固める…同一化の促進という危険性、実際にグローバル化

・②福祉国家から社会国家へ=人々のニーズに対応する空間を国家から市民社会に移す[5]

 ―問題=近代家父長制のイデオロギー市民社会が国家の「下請け」化する可能性

     市民社会において評価されるのは社会的行為であって政治的行為ではない

・一方でそもそも福祉国家の国家の統治への依存性は問題

 =人々の政治的力量の喪失

 →国家による一元的統治から市民社会へ=政治的自由の実践の拡大へ

・一方で福祉国家のメリットを再確認すると…非人称の強制的連帯、市民社会への「能動性」は「弱者」の「棄民」化を回避できない

 

第六章 親密圏/公共圏

<親密圏の発現>

・「親密圏」…小家族的な親密性の圏

 =18Cに主要な家族形態として登場、特徴として自由と愛と教養

  ―愛の共同体、人間性の形成、文芸的公共圏の母胎、純粋な関係性

・一方アーレントの「親密圏」…私的領域でなく、社会的なものの威力への対抗空間

              =人間の心をねじ曲げる社会の耐え難い力に対抗する

 =親密圏を、失われた公共的空間の代償的空間として捉える

  ―ここでの親密圏は代償的であり公共的空間そのものではない

  =親密圏における人-間の複数性は、公共的=政治的領域の「無限の複数性」には達し得ない

  ―親密圏における対話は、抗争を欠き、政治性を欠く=内閉した等質なコミュニケーションに過ぎない?

  ⇔一方で親密圏が政治的な権力を生み出すかの生もあるのでは?

 

<親密圏と公共圏・家族>

・親密圏と公共圏の分析的区別

 =公共圏…人々の間にある共通の問題への関心、親密圏…具体的な他者の生への関心

  ―親密圏の具体性=見知らぬ他者でなく、間人格的、さらに身体性を備えた他者

・親密圏と家族の分析的区別

 =家族…愛による結びつき、親密圏…愛による結びつきに限らない、セルフヘルプグループの存在等、家族以外のあり方も含む

 
<親密圏の政治的ポテンシャル>

・親密圏→公共圏へ(住民投票等)

 =これまでの支配的な文化的コードを書き換えうる新しい政治的ポテンシャルが他者に対する「決定」を求めない親密圏のコミュニケーションの中に育まれる

  ―了解に達するのをあきらめること、他者が他のようにあるのを肯定することといった他者との緩やかな関係の持続を可能に

 =アーレントの描く現われの公共性に親和的

・親密圏は「相対的に安全な空間」として特にその外部で否認あるいは蔑視の視線に曝されやすい人々にとっては、自尊あるいは名誉の感情を回復し、抵抗の力を再獲得するためのよりどころ=発話者を攻撃から守るという政治的機能としての親密圏

 =親密圏は「感情」の空間でもある

  ―「排斥されてはないという感情」⇔一方で同化と抑圧の空間への転化の危険性

   =自尊の感情にとって重要な意味

 

終章 自己と公共性——生/生命の複数の位相と公共性の複数の次元

・自己と公共性…複数の位相がある

 →個人と共同体においてどうか…一つの共同性の次元があたかも人間の生全体を包摂する意味を持つかのように描く

・しかし、我々の生はそうした一元的な取り扱いにはなじまない

 =個人…アイデンティティは多層的で複数=複数の価値の「間の空間」

  →この複数の間の喪失=排他的自己同一化へ

 =空間…次元を別にする複数の間がある

  ―親密圏(他者の存在肯定)、国家の公共性(絶えず再定義されるニーズの政治)

   自己が他者と共有する世界に関わるもの(グローバルな公共的空間[6]

 

[1] ここでは「これは公共で語るべきテーマだ」といった暗黙の了解が働くことを意味するが、これは恣意的に公私の区別が行われうる危険性を孕む。実際に家庭における女性の問題を私的だからと言って公共空間での議論の対象にしないことは問題がある。

[2] ここでは表象を持って他人を眼差す。たとえばあいつは日本人だ、女性だ、等。この表象の視点は優位にある人々が劣位にある人々をネガティブに同定する「有徴化」と結びつく。

[3] 行為と行動の別。

[4] ロールズにおいて公共的価値は「基本財」という形で、物質的に表されるが、これでは「基本財」を使っていかに何を成しうるかという問題がある。

[5] 残余的福祉モデルとも。個人の自助努力と家庭や近隣地域社会の連帯を基礎としつつ、効率の良い政府が適正な公的福祉を重点的に保証。

[6] ここで問題となるのが、「誰が合意を形成すべきアクターとみなされるべきか」。ハーバーマスコソヴォへのNATOの介入を介入した側の国家間の合意によって正当化したが、サイードはこの点を批判し、これが「本人を排除した代理人たちの公共性の正当化」であるとしている。