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本の要約、メモ、書評など。

<第一回>ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』を読む

 

 ふだん、私たちは、ある感覚と別の感覚を比較し、この苦しみの方があの苦しみより大きいとか、今日の悲しみはあの日の悲しみの二倍だとか言ったような形で、感覚を大小の量的な仕方でとらえています。ベルクソンは、このような感覚を量的に考えることはまったくの錯覚であると批判します。我々の感覚の間にあるのは大小の量的な差異ではなく、「本性上の質的な差異」だ、と。どういうことでしょうか。

 早速『意識に直接与えられたものについての試論』の「はじめに」を見てみましょう。「われわれは、自分の考えを表明するのに必ず言葉を用いるし、また、大抵は空間のなかで思考する…鮮明ではっきりした区別、同じ不連続性を打ち立てることを要請する。このような同一視は、実践的な生においては有用であり、大部分の学問においては不可欠である」——ベルクソンは、私たちが「空間」の中で「量的」に考えることは日常生活において常識とみなされていることだと認めています。しかし、哲学的に考えるにあたり、「まったく空間を占めないものを空間のうちに何としても並置しようと固執することに起因する」困難が生じているというのです。私たちは「質」を「量」に、「持続」を「空間」に、不当に翻訳してしまっている——本書はこの錯覚を分解するとともに、直接に与えられたものとしての「自由」を呈示しようと試みるのです。

 

 簡単に本書の流れをお話ししたところで、これより、ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』(以下、『試論』)を読んでいきたいと思います。本書を読むにあたっての最大のポイントは、彼の主張が必ずしも論理学的・実証的ではないということでしょう。特に第二章の純粋持続に関する議論において、ベルクソンの持ってくる前提は割と感覚的な場合も多いです*1。この前提から議論を展開していくので、ベルクソンの前提を感覚的に違和感なく受け入れられるかどうかによってベルクソンに対する印象は大きく変わるように思います。その意味でベルクソンは読み手を選ぶ哲学者かもしれません。ただし、非論理学的・非実証的だからダメ、と結論付けるのはあまりに早計でしょう。第一章後半で長々と展開される精神物理学批判を読めば、(あるいは後年のベルクソンの作品群を読めば)ベルクソンが科学の議論や知識に長けていたことは明らかです。金森修ベルクソン評を借りれば、「実証主義を無視するのでも、敵視するのでもない、にもかかわらずそれに雷同しないこと…(中略)…ベルクソンは最も見事に、その難しい技を繰り広げてくれた哲学者の一人だった*2」というように、ベルクソン実証主義と概念世界の緊張関係のはざまで議論を展開しようとした、といえるでしょう。では早速一章から始めます。

 

※なお、底本は、ちくま学芸文庫合田正人・平井靖史訳をメインに、白水社の新訳ベルクソン全集の竹内信夫訳も併用しつつ進めていきたいと思います。(以下、特に表記の無い場合は合田・平井訳からの引用です。)

・アンリ・ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論——時間と自由』合田正人・平井靖史訳(ちくま学芸文庫、2002年)

・アンリ・ベルクソン『新訳ベルクソン全集1意識に直接与えられているものについての試論』竹内信夫訳(白水社、2010年)

 

第一章 心理的諸状況の強度について

 本章で俎上に載せられるのは、「質」と「量」の混同です。つまり、我々は意識、感覚、感情、努力などを「量」だとみなしているが、実際には「質」なのだ、ということです。確かに我々は感情を増減するものだと自然に考えています。「量」と考えているゆえ、ある悲しみが別の悲しみよりも大きい、昨日より今日の方がより寒いとか言ったりするのです。実際に、ベルクソンは、ふつう日常生活で我々がこのように考えていることを「常識」として認めています。

 しかし、このように考えた場合、たくさんの問題が生じるのだ、とベルクソンは言います。「この悲しみはあの悲しみよりも大きい」という例で考えてみましょう。これを数学的に翻訳すると、「より強い感覚がより弱い感覚を含みうる」ことを念頭にすることとならないか、というのです。3より5が大きいのは、3が5に「含まれる」からなのである。とすると、「この悲しみ」に「あの悲しみ」が含まれるということになってしまう。けれども、二つの別の悲しみが包含関係にあるようなこと、ある感覚に達するために別の感覚を経由するようなことが、果たしてあるのでしようか。

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(3<5を考えると↑のように図示できるが…)

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(悲しみA<悲しみBについてもこのように言える…?)

 

 これに対し、ある人はこう言うかもしれません。「確かに、「悲しみ」を計測することはできない。だが、その悲しみを生んだ原因の大小を客観的に計測することはできるのではないか。」と。例えば、「まぶしい」という感情の原因である光の強さ・弱さを計測することはできるだろう。そうすれば、この計測結果に基づいて、感情の大小を決定できるのではないか、と。しかし、我々は大多数の場合において、原因(運動)の大きさを知らないままに結果(感情)の大きさを口にしています。実際、いちいち原因の大きさを測って感情の大小を言うことはないでしょう。一本の歯を抜くときの痛みと髪の毛を抜くときの痛みのどちらの方が痛いか?と聞かれたら、わざわざ計測したりせず、感覚的に歯の方が痛いに決まっている、と答えるでしょう。場合によってはそもそも原因を計測することもできないでしょう。いらすとやのイラストよりもゴッホの絵のほうが美的喜びを与えてくれる、と当然のように答えることはできますが、原因(二つの絵)を数値で計測することなどできません。さらに、場合によっては結果に基づいて勝手に原因の大小を推し量ったりすることもあります(これについてはのちに詳しく立ち返ることになります)。

 では、我々はなぜ「質的」であるはずの感情を「量的」に考えてしまうのでしょうか。ベルクソンは、質的に全く異なる「本性に属する様々な強度を、同じ名で呼び、同じ仕方で表象する点に存している」からだといいます。つまり、ある感情とある感覚とある努力、これらは本来質的に違うものですが、これらの感情、感覚、努力に至る際に身体の筋肉運動が同じように動いていたりすると、同様の筋肉感覚を理由に、これらを同じものだと錯覚してしまうというのです。だとすれば、「筋肉感覚と結びついていないような感情」であれば、比較的考察しやすいのではないか、ということで、ベルクソンはまず「筋肉感覚と結びついていないような感情」=「深い感情」についての考察をはじめます。なお、これ以降、ベルクソンは様々な心理状態を分類して、それぞれにおいて質と量が混同されていることを明らかにしていきます。

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(p264の分類図より作成。)

 

(1―1)複合状態*3—深い感情

 深い感情として、欲望が大きくなっていく例を考えてみましょう。ある欲望が次第に大きくなっていくにつれ、欲望の感情は多くの心理的な諸要素に浸透していき全体に広がっていきます。「弱い」欲望の際には特に他の部分とは無縁なように見えますが、これがどんどん「強い」欲望となっていくと、他の様々な心的状態に染み込んでいき、その人の感情全体が一新されるのです。一新された感情は、もはやそれまでの「弱い欲望」における感情とは全く異なるものとなるのです。したがって、感情の強度が大きくなることによって、無数の知覚や記憶のニュアンスが変容するのであり、この移行によって感覚は質的に変容している——「量」的ではなくて「質」的に——のです。

 同様に、美的感情についても考えてみましょう。ベルクソンは「優雅さ」という美的感情を例示しています。では、そもそも「優雅さ」とは何でしょう。ベルクソンは、例えば音楽のリズムがそうであるように、後に起こることが容易に想像できる「容易さの知覚」であると言っています。例えば飛び飛びの線ではなくて曲線を美しいと思うような、ぎこちない動きの踊りではなくて流れるリズムに合わせてスムーズに踊るダンサーを美しいと思うような、感情のことです。

 では、この「優雅さ」の感情の強度が増大する際、我々に何が起きているのでしょう。この大きさもやはり、量的・連続的なものではありません。増大にともない、様々な質的に異なる感情を有しているのです。つまり、美的感情の高まりとは、次第に高まっていくような量的な進展ではなく、次々に先立つ感情を凌駕してしまうような質的な進展なのです。美的感情の情動は、数多の感覚、感情、観念に満たされ、浸透されています。したがって、「一つの美的感情の進展には複数の互いに区別される局面があ」り、これらの局面は「度合いの変動に対応するというよりも、状態の差異あるいは本性の差異に対応している(p.28-29)」のです。やはり「量」ではなく、「質」だ、というのがベルクソンの繰り返す主張です。

 

(1-2)複合状態—表層的努力(筋肉の努力)

 ここまで、「深い感情」について考えてきました。ですが、多くの場合、「深い感情」のように感情そのものを外的要因(特に身体的な徴候)と切り離すことはできません。何か痛みを感じるのは身体が実際に傷を負ったことと連関しているのは明らかでしょう。では、こうした筋肉の努力と感情の関係についてどのようなことが言えるでしょうか。

 我々はここでも「質的」なものを「量的」なものだと錯誤してしまっているといいます。この錯誤は、「筋肉の力が量的に大きくなるほど感情そのものも量的に大きくなる」というものです。拳を次第に強く握りしめることを考えてみましょう。拳に力を込めれば込めるほど、感情も「強く」なっていくように思ってしまうことはないでしょうか。しかし、この感覚は全くの誤りだというのです。この時、我々は運動に関わっている筋肉を拳のみに局所化して考え、「やはりその感覚の大きさは継起的に増大しているではないか」と思い込んでいるといいます。けれども、注意して考えると、実際に起こっているのは、拳以外の「身体全体を含む」筋肉の変動なのです。拳に力を入れるときに我々は拳の筋肉のみが強くなっているように思いこんでいますが、拳に力を入れることで身体の筋肉全体が変動しているのです。したがって、筋肉の努力の増大において我々の意識は、質的に、複合的に、進展しているのだ、というのです。しつこいようですが、やはり「量」ではなく「質」なのです。

 

(1-3)複合状態—中間的状態

 深い感情(1-1)は「筋肉感覚と結びついていないような」純粋に心的なもの、一方表層的努力(1-2)は「筋肉感覚から直接現前してくるように思われる」筋肉の努力の話でした。そして、そのどちらにおいても、感情や感覚を「量」と錯誤してしまっている、ということを明らかにしてきました。この深い感情(1-1)と運動的な感覚(1-2)の間の中間的な状態においても同様のことが言えるのではないか、と議論が進みます。実際、多くの感情は、筋肉感覚と結びついているので、中間的状態を無視することはできないでしょう。ベルクソンはこの中間的状態を「注意と緊張」と「激しい情動」の二つに分けて考察します。前者の場合は、「精神を集中させる」という心的な行為において、筋肉緊縮などの身体的運動が付随しているという意味で中間的です。この場合でも、「注意」の強度を強めていくと、緊張が身体的に、精神的に、疲労感や苦痛に、と質的に変わっていることを見出すことができるでしょう。後者の場合は、心的な行為が「実際の行動」へと結びついているという点で前者と異なります。一方、中間的の意味するところは前者同様で、「激しい情動」という心的感情において筋肉緊縮が付随しているということです。例えば「強い恐れ」の情動を例にとってみましょう。このとき、我々は心的に「怖い」と思うと同時に、叫んだり逃げたり、動悸や痙攣をおこしたりといったように身体運動を行います。この両者の関係は互いに依存的で、切り離すことはできませんし、一方が他方の原因だというように還元的に考えることもできません。心的・内的緊張と身体運動は一緒になってこそ、「激しい情動」となりうるのです。したがって、このうち一方の身体運動だけをくみ上げて、これを計測する=量化したところで、それは「情動」をとらえたことにならないのです。

 

(2)単純状態

 さて、これまで複合状態の感情について議論してきました。結局、いろいろ見てきたけれど、複合状態の感情は「量」的に考えられているけれども、実際には「質」的なもので、その変化は大きくなったり小さくなったりするととらえてはだめで、その変化は「質的」なのだ、ということです。しかし、これに対しては以下のような反論が考えられます。「なるほど。複合状態においては必ずしも外的原因に依存しない質的な進展が見られるのは理解できた。けど、外的原因への反射のような”単純状態”における感情はどうなのか。この場合は感情を量と考えざるを得ないのではないか。」と。「痛っ」という外的刺激=感覚に見える反射的な感情であったり、「まぶしい」というあからさまに光量と感情が一致していそうなものであったり。確かに「量っぽい」感情があることはなんとなく理解できます。けど、ベルクソンはこうした「単純状態」においても「量」ではなく「質」、ということを繰り返し説いていきます。ベルクソンはこの問いを(2-1)「情緒的諸感覚」と(2-2)「表象的諸感覚」に分けて考えていきます。

 

(2-1)情緒的諸感覚

 情緒的諸感覚における問題の困難は、神経的振動(物理的な運動)と感情の動きがまったくの別物であることを理解しないことにある、といいます。例えば振動の振り幅のような重ね合わせのきく大きさ(物質的な運動)と、何ら空間を占めることのない感覚(人間の心的感覚)との間には、共通点は存在しません。振り子の運動と人間の感覚は全くの別物です。それなのに、我々は感覚の強度を理解する際に、感覚化される以前の身体的な反応の量を計測して、そこから感覚を量的に捉えてしまっているのです。ゆえに、筋肉がこれほど動かされた、という「運動の量」と、その人はこれほど疲れた、という「心の感じ方」をイコールで結んでしまってはならず、「運動」と「感じ方」は全く別物であり、筋肉の動きとは似ても似つかぬ感覚という姿をとる、ということを理解しなければならないのです。

 さらに、例えば恐怖の感情を考えたときに、その感情が今まさに外的に起こっていることのみならず、「将来起こるかもしれない」ことによって変化しうるということも考慮に入れる必要があります。お化け屋敷に入ろうというとき、我々は、特に外界から何かの刺激を受け取ったわけでもないのに、これから起こるであろうことについて思いめぐらせ、恐怖の感情を抱いたりするのです。

 あるいは、苦しみや痛みが増大するにつれその感覚が身体全体へと広がっていき、身体全体が変容するという指摘も重要な観点です。これは、苦痛の増大によって受ける感覚の変容が量的・連続的なものでは全くなく、質的なものである、ということの裏付けともいえるでしょう。したがって、やはり情緒的諸感覚においても、我々は身体的な反応の量を計測してそれを感覚の量だと錯覚しているが、そうではなく、質的なものである、ということです。

 

(2-2)表象的諸感覚

 表象的諸感覚においては、その「原因」の大小関係を計測することが非常に容易に思われるゆえ、我々はその原因の大小からすぐさま感覚の大小をも量的なものとして解釈してしまっています。例えば音の大小。音の大小を計測するのは非常に容易なため、大きい音を聞いた時と小さい音を聞いた時の感じ方の違いは量的に比較できるだろう、と思うのは当然のことでしょう。あるいは光の強度。光が強ければそれだけ量的に大きな「まぶしさ」を感じるのではないか、という考えもまた自然なもののように思えます。しかし、そうではない、とベルクソンは言います。こうした表象的諸感覚においても、感覚の強度は「量」的ではなく「質」的だというのです。

 まずは音の感覚について考えてみましょう。「音の大小の感じ方は量的ではなく質的である」、とはどういうことでしょうか。きわめて強い音を聞いた時、我々は体全体震えるような、あるいは何か衝撃を受けたような効果を感じます。他方、非常に弱い音を聞いた時、我々はその音を注意して聞き取ろうと集中したりします。したがって、音によって我々は聞き方そのものを変えているのです。大きい音を聞くときは大きな感情が、小さい音を聞くときは小さな感情が、生じているわけではなく、大きい音と小さい音は、感情にとって全くの別物であるのです。中程度の音量についても、同様のことがいえます。暗闇でチクタクと鳴り続ける時計の音や未知の外国語を聞いていると、その実際の音量とは関係なく、その音が自分の頭の中でぐるぐると響いてくる、という経験はないでしょうか。特に時計の音は、なかなか寝付けない時に聞いているとなんだかいつもより大きな音に聞こえてくる…なんて経験は誰もが感じたことのある体験だと思います。つまり、音の感じ方は実際の音量の大小とはまた別物である、ということが分かるでしょう。

 続いて「熱い冷たい」、「暑い寒い」といった熱の感覚について考えてみましょう。『試論』の書かれた当時の最新の生理学研究は、熱さと冷たさは身体表面の同じ点で感じられるのではないという興味深い事実を証明しています。この事実は、熱さと冷たさの間に量的ではなく質的な差異がある、と主張したいベルクソンにとって、自身の立場を強固にする嬉しい研究結果であったことでしょう。しかし、ベルクソンはさらに一歩踏み込みます。つまり、熱さそれ自体の中でも同じようなことが起きている=「ある熱さ」と「より熱い熱さ」の間にも固有の差異が存在している、というのです。これに関してベルクソンは多くを語りません。かわりに読者にこう問いかけます。「これまでの経験や感覚の結果を捨象して、熱さの感覚そのものと対峙して自問してみなさい。そうすれば私の言っていることはわかるはずだ(意訳)」、と。

 さらに、ベルクソンは「熱い」と「冷たい」の間の差異は質的だというのと同様、「重い」と「軽い」の間の差異も質的だといいます。「重い物」を持つとき、我々は実際に持っている手の筋肉運動だけに注目してしまいますが、実際には身体全体が運動しているのです。「軽い物」を持つときも同様に身体全体が運動しています。しかし、この身体全体の運動の仕方は重い物を持つときと全く異なっています。重い物を持つとき、足に力が入るかもしれませんが、軽い物のときはそうではないでしょう。つまり、我々は軽い重いを局所化して手の筋肉量と運動量だけの多寡のみを比較して考えてしまっていますが、身体全体では軽い重いで全く異なる——質的に異なる——動きをしているのです。

 最後に挙げるのが光の感覚です。やはり、光の「明るい」「暗い」も量的差異ではなく質的差異だ、という話です。部屋が徐々に明るくなっていく場合を考えてみましょう。次第に明るくなるにつれ、部屋にある机の、コーヒーカップの見え方は変化してきます。このとき、我々は机やコーヒーカップの色が変化したのではなく、自分の感覚が変化し「増加」した結果、机やコーヒーカップの見え方が変わったと考えてしまっている、と言います。目にしている物の色が質的に変化しているのにもかかわらず、我々はそれを自身の感覚の量的な変化であるととらえてしまっているのです。

 同様に、蠟燭を使ったある実験を考えてみましょう。4本の蝋燭に照らされた白い紙を注意深く観察してもらいます。そして4本の蝋燭を1本ずつ消していき、この時、白い紙がどのように変化したかを答えてもらうのです。すると、ふつう「白い紙が次第に暗くなった」と答えるでしょう。しかし、それは経験にゆがめられた知覚だというのです。実際に起きていることは、蝋燭が消えるにつれ、「全く異なる色」が現れているのです。黒が光感覚の不在、灰色が発光色の減少したもの、と当たり前のように思っているけれど、実際に存在するのは無数の異なる色なのであり、それは数直線上に配置できる量的なものではなく、それぞれが非連続的で質的なニュアンスを持っているのです。

 

 さて、ここまで音や熱さ重さ、光など様々な表象的諸感覚に注目してこのそれぞれが量的ではなく質的だということを明らかにしてきました。これらのどの感覚にも共通するのは、我々は結果として現れるものとその原因を取り違えてしまっている、ということでしょう。右手にピンを持って左手の甲に徐々に強く突き刺す例を考えてみましょう。我々は左手に生じる痛覚がどんどんと大きくなっているように思いますが、それは自分の右手の運動を大きくしていることをそのまま左手に生じてきる痛覚の大きさだとみなしてしまっているのです。この場合、原因が右手の運動で結果が左手の痛覚となりますが、この原因の量と結果の質を取り違え、質的な左手の痛覚を量的に考えてしまっているのです。これがいかに誤っているかは各項目で詳細に見てきたところですので繰り返しません。

 「我々は原因のある量を結果の質のうちに置き、質的差異を量的差異に誤って翻訳してしまっている」ということが明らかになりました。一見量的に思える単純状態における感覚についても、複合状態同様、本来は質的なものであるということが分かりました。このように、「感覚は量ではなく質ではある」、と繰り返すベルクソンですが、この主張は当時誕生していた精神物理学の感覚を量的にみなす主張と真っ向から対立します。したがって、続いてベルクソンは、精神物理学のどこがいけないかを詳細に議論していくことになります。

 

精神物理学批判

 精神物理学の議論の手始めに、ベルクソンはデルブフの光感覚計測を俎上に載せます。これは、2つの明度の異なる光を提示した後に、この二つの明度の中間にあたる明度を持つ光を被験者に当てさせるものです。結果、被験者はちょうど中間にあたる明度を答えることができたので、ここからデルブフは、人間はある明度と別の明度を対比することができる、ゆえに我々の感じる明度の大小も計測して数値化できる、という結論を引き出します。ベルクソンは、この結論には精神物理学全般に通底するある理論的な前提があり、この前提ゆえに精神物理学の主張には肯定できない、というのです。

 さて、ここで精神物理学について簡単に紹介しておきましょう。精神物理学は、外的な刺激と内的な感覚の対応関係を測定し、また定量的な計測をしようとする学問で、例えば痛みであればその痛みを生じさせた刺激と痛みの感覚がいかに対応しているかを測定しようとしていきます。そして、この外的刺激と内的感覚の感覚は、ウェーバーとフェヒナーによって定式化されます。ウェーバーは、ある刺激に気づくことができる最小の刺激差(=弁別閾)は、知覚される感覚の差異と比例関係にある、という法則を定立します。ある感覚に対応する刺激をEとし、感覚の変移が感知されるために必要な刺激の増量分をΔEとすると、

ΔE/E=定数(constant)

の関係が導ける、というのです。例えば、ある熱さに対応する刺激が100であり、この熱さが別の熱さであると考えられるようになる必要な刺激の増量分を10であるとします。すると、このE/ΔEは1/10となりますので、熱さAが200であるとき、その熱さが210となっても我々はそれに気づけず、熱さAが220となってはじめて熱さの変化に気づくことができる(20/200=1/10)、というわけです。

 ベルクソンは、このような定式以前の問題として、精神物理学が、ある感覚Aとある感覚Bが同等であり、相互に足したり引いたりできる、ということを前提としていることに注目します。しかし、感覚は、これまでベルクソンが繰り返したように、「質」的なものです。したがって、それを「数」=「量」の概念で表現することはできません。したがって、そもそもある感覚とある感覚が「同等」だとか、ある感覚とある感覚を足し合わせるだとかは不可能なことなのです。精神物理学は、この「質的な感覚」を、原因たる筋肉や神経の動きなどの「量的な運動」によって数値化しようとしていますが、これはここまでベルクソンが論じてきたような「原因と結果」、「量と質」の混同に他なりません。したがって、この誤った前提から出発する精神物理学の主張は、全て恣意的な定義に基づいたものとなるのです。EとE'の間にあるとされる数的間隔ΔEは、実際には「数的間隔」ではなく、E→E'(=E+ΔE)への、別の感覚への「移行」でしかない——したがって、数論的な意味で差分が存在しているわけではないのです。こうした精神物理学の誤謬は、結局我々のうちのなんとなくの常識から出発したものではないか、とベルクソンは言っています。つまり、精神物理学は一般常識にはおなじみの考え方を精密に理論化し、最終的な帰結にまで推し進めただけなのです。その意味で、ベルクソンから見て、「物理学は常識の錯誤を鼓舞し、誇張している」ものだということになるのです。

 

第一章まとめ——強度と多様性 

 第一章のまとめとして、ベルクソンは、これまでの議論を整理して意識状態を二つの様相に分けて論じます。第一の様相は、意識的状態を外的原因を表象するものと考えるもので、例えば「まぶしい」という意識的状態は「光量が増大したから」だ、というような外的原因を表象していると考えるものです。ここでは、感情は、その感情を産んだ外的原因の大きさを計測することで知覚されます。一方、第二の様相は、意識的状態をそれ自身で自足した事象であると考えるもので、例えば「幸せだ」という意識的状態は、外的な原因とは関係なく、内的に存在する様々な混然とした知覚の集まりである、と考えるものです。ここでは、その感情は、様々な意識状態・ニュアンスが含まれており、いわば「内的多様性」を持っているものとして知覚されます。「知覚」、といってもそれは明晰に知りうるものではなく、「混然とした知覚」です。この二つは、互いに一緒になり、第一の様相の流れが外部から「大きさ」の観念を我々にもたらし、第二の様相の流れが我々の意識の深みで内的多様性のイメージを意識の表層にもたらしているのです。

 さて、ここまでのまとめをしておきましょう。「人生で今日は一番幸せな日だ」とか「昨日より今日の方が寒い」とか、我々は日々当たり前のように感情や感覚を「量」的に考えてしまっています。けど、それはおかしい、というのがベルクソンの主張でした。この我々の「常識」に異議を唱え、感情や感覚の「本来」の姿を問い直そうとしたのです。なぜベルクソンはかくも「常識」に挑戦するのか、この理由も少しばかり垣間見えてきました。すなわち、「決定論」からの脱却です。元来それ固有の質を持っている感情が「量」に翻訳されてしまうことで、一人一人の意識が客体的なものになってしまう——「質」を「量」だとみなしているがために、我々は「自由」を失っている、という決定論と自由の話へとつながっていくのです。やや先走りました。自由の話は第三章のメインテーマです。

 ここまでで、感情が「量」ではなくて「質」なのはわかりました。ですが、そもそもここでいう「質」とは何なのでしょう。そして、上で述べられていたように、この質は「多様性」を有しているとすれば、「多様」という性質は数=「量」の話になってしまうことはないのでしょうか。第二章はこれらの疑問に答え、「質」と「量」を「持続」と「延長」という概念からとらえなおします。

 

第二回に続きます。 

 

*1:例えば以下のような記述。「だからわたしは意識に対してこう頼んでみたくなる。外的世界から身を引き離し、その抽象的能力を力強く発揮して、本来のあなた自身にもどってください、と。そして、意識にこう問いかけてみよう。われわれの意識状態の多様性は、ある数を構成する単位の多数性と、少しでも似たところはあるのだろうか?」(竹内訳p89)。ここでベルクソンが言いたいことは、外的世界のあり方からいったん離れて内的な自分自身に向き合えば、自身の意識が数的な観念と相容れないということがわかるだろう、ということです。また、あるいは第一章の以下のような記述。「読者一人一人にお願いしたいのは、自分の過去の経験が自分の感覚の原因について教えてくれることを白紙にもどし、その感覚そのものと直接対面して、以上述べてきた点に関して、それぞれ仔細に自問してみることだ。この自問の結果は疑問の余地を残さないであろう」(竹内訳p51)。

*2:金森修ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(NHK出版、2003年)

*3:ここで突然「複合状態」というワードが出てくるのですが、ここでは特に難しく考える必要はありません。例えば「欲望」という「深い感情」においては羨望だったり嫉妬だったり、あるいは虚栄心だったり、様々な心的状態が含まれているでしょう。こうした様々な心的状態が含まれているものを、「複合」だ、というのです。ただし、この「複合」のイメージは決して「量的」ではない、という点に注意する必要があるのですが、この点は第二章で詳しく立ち返ります。