【読書メモ】高田宏史『世俗と宗教の間——チャールズ・テイラーの政治理論』
高田宏史『世俗と宗教の間——チャールズ・テイラーの政治理論』(2011、風行社)
(※自分の興味がテイラーの世俗主義論にあることから、以下メモ書きはほとんど『世俗の時代』周辺の記述のみです。)
序論
・チャールズテイラーとカソリシズム
1.哲学的人間学による多元性の擁護——言語・自己・自由
全体性と個別性の和解
=人間の個別的多様性とその多様性の統合(政治的統合)
前近代(超越的)→人間の主体化(=ラディカル啓蒙主義)
ラディカル啓蒙主義⇔表出主義
2.「承認の政治」と超越性——「地平融合」とアガペー
現代政治理論が暗黙の地平としている排他的人間主義は異質な人々が共生するための基盤として不十分
→有神論的なアガペーのネットワークへ
3.カソリシズム・多元主義・世俗化——『世俗の時代』における世俗性の系譜学
・カトリシズムを多元主義の倫理的根拠に据える
「テイラーのカトリシズム」と「多元主義」は矛盾なく接続しうるか?
→これをめぐるアビーとフレイザーの論争
・フレイザーの批判=テイラーのカトリシズムの四点にたいして①差異②超越性③無条件的愛④マテオリッチ
①=カトリシズムは「差異を横断する統一性」を持っているというが…
②=カトリックにおける超越性の定義があいまい
③=無条件的愛は他者の行為に無批判、さらに愛する側が優位にある
④=マテオリッチを「テイラーのカトリシズム(=差異を横断する統一性)」の模範だとするが、そうではないのでは…
→テイラーのカソリシズムと多元主義は矛盾する、それどころか多元主義を掘り崩す
・アビーのフレイザー批判=特にテイラーの①、③、④を擁護
・フレイザーの再反論
=彼は批判上最も重要な点を②においており、それが擁護されえない以上立場に変化はない
=②超越性について…無神論への敵意がやはり根強く、多元性は擁護されえない
・『世俗の時代』の目的
=三つの世俗性の構成要素を挙げ、そのうち3点目(=信仰の条件の変容)を強調
→「1500年においては神を信じないことが不可能であったのに、2000年においては多くの人々が神を信じないことが簡単になっているどころか不可避でさえあるのはなぜか」
=自分の生が「善き生」であるかの判断を神の判断に委ねる…個人の生を超越したところに生の十全性の源泉がある⇔現代人にとって生の十全性の源泉は内在的
=この観点から世俗化プロセスを考える=生の十全性をめぐる理解の文脈が大きく変容、このプロセスで、内在的な道徳倫理が登場
⇒テイラーにとっての世俗化…①有神論的超越的な構成的善のヘゲモニーが衰退し、②人間主義的内在的な構成的善がそれへのオルタナティブとして興隆していく
=近代性を擁護、複数の近代性が併存するものとしての現代社会のあり方を提示
・『世俗の時代』要約
<第一部~第三部=神の存在の退場>
→宗教改革等を経て「大いなる脱埋め込み」へ=遊離した個人たちから成る社会的想像へ。「排他的人間主義」を準備
→これは別のスピリチュアルの源泉の探索へ
=①カント、ルソーといった道徳的源泉を人間内部に見だす
②ロマン主義に依る近代的道徳秩序批判
③近代的道徳秩序の安直さ、楽観性批判
→現代にいたる三つの道徳的立場(超越性の信仰・排他的人間主義・ニーチェ的反人間主義)が登場、「世俗の時代」が成立
<第四部=世俗化に伴う社会と宗教の関係の変化>
アンシャンレジーム型の宗教-社会関係(旧デュルケム的)
↓
「動員の時代」の宗教-社会関係[1]へ(新デュルケム的)
↓
「本来性の時代」の宗教-社会関係へ=「表出的個人主義」の拡散
=個別的な目標を個別的な手段で追い求めるという二重の意味での個別化が進行
=信仰は一つのオプションに
→宗教と社会が完全に分断、ポストデュルケム的関係に
※けれども、新デュルケム的関係が失われることはない
→世俗化には多様な型が存在、そのプロセス世俗化もまたそうである
<第五部=現代における信仰の条件、信仰の可能性>
現代の「内在的枠組み」は閉じたままで自足しうるのか?
=内在性の時代にあっても「超越性」「垂直的」なものの場所は存在する
現代の宗教は以前と同じ形式では存在できない=これこそが③の信仰の条件の変容
→世俗化は宗教そのものの衰退ではなく、信仰が可能になるための条件の変化
この条件=生の十全性を内在的源泉or超越的源泉からもってくるという両立場間での抗争
→この両立場のジレンマ=超越的なものへの願望と日常生活の善の間、もしくは形而上学的暴力衝動と理性の間
信仰/不信仰の対立という二分法を否定
信仰の側…原理主義的立場/啓蒙以降の成果やそれへの批判を斟酌し、信仰の中に反映させようとする立場
といったように区分
→世俗と信仰が交差し合い無数に断片化、複数化する
これを前提とした際の信仰の未来は?
①私事化、減算説
②生の十全性の源泉を超越的現実に求める立場は、同時に我々がそうした超越的現実に対していかにわずかの知識しか持っていないかという「反省」を含む→ので、さらなる探求を要し、この探求の中で、人々はその見解を揺さぶられ、変更せざるを得なくなる
⇔だからといって、超越性への信仰が常に変化に開けているべきか、というとそうではない。「常に変化」では安定的な社会生活の基盤を掘り崩しかねない
→平衡点をどこに見だすかというジレンマ
⇒信仰の流動性とその帰結としての信仰の多様性を認める立場
・『自己の形成』における無神論に対する敵対的な記述は『世俗の時代』においてどうなった?
=後者は「新ニーチェ主義者」の果たした思想的役割に対して積極的評価をするように→彼のカソリック的多元主義は柔軟かつ無神論との相互変容過程に開かれた立場に
=実際にコノリーも『世俗の時代』においてテイラーは無神論的伝統における善の源泉を評価するようになったと認めている
=もう一つの両著の重要な違い
『自己の形成』…単線的歴史叙述
『世俗の時代』…系譜学的アプローチ→すなわち世俗化のプロセスは複合的プロセスであり、減算説では「不動」「単一」と考えられていたプロセスを断片化し、その内部における相互異質性を強調
4.世俗主義と多元主義——マイケル・サンデルとテイラー
・サンデルとテイラーの類似点
両者とも多元性の擁護に向けられている
共和主義的な参加型デモクラシーを重視、生の多様性、価値の多元性を擁護
・両者の違い
生の多様性の擁護を全く異なる理路で呈示
―サンデルはこれを世俗主義的な「被贈与性の倫理」という観点から擁護
=生の多様性の尊重は人間が自己の能力・財産・人種・国家などといった先天的なものを、偶然に贈与されたものとして解釈する点に存する
―テイラーは他者との連帯を純粋に世俗的に基礎づけることには限界があり、不十分であるとみなす…何らかの超越性を認知することなしに生の多様性を尊重することは困
難であると考える
・この差異は世俗主義理解の差異に関係している
=テイラーの多元主義論の眼目…擁護されるべきは単に個人の生や価値、共同体だけでない→それらの価値や善の背景となる「社会的想像」の多元性を擁護すること
→これは博愛の範囲が偏狭化する
さらに、このリベラルな世俗主義は固有の暴力性を有していると論ずる
5.世俗主義と暴力——タラル・アサドとテイラー
・世俗主義に特有の暴力性を考察するアサドとテイラーの比較
・テイラーの暴力論
=世俗的な暴力は「カテゴリーに向かう暴力」
これは宗教的な二つの暴力(「スケープゴート」「聖戦」)のメカニズムに回帰している
※しかしながら世俗的暴力は単なる宗教的な暴力の回帰ではない
=世俗においては暴力の合理主義的な道徳化が行われている
つまり、世俗の時代における暴力は他者を悪とし、それとの対比により自己を善とすることによって形而上学的に自らの暴力を正統化
・アサドの暴力論
=テイラーと同じく世俗主義の道徳的な優越性の自己確信が他者に向かう暴力を正当化
※これをウォルツァーの正戦論や拷問をめぐる言説からみる
=「野蛮な」宗教的教義と「文明化した」世俗主義の対比
→世俗的個人と国家の保護のための暴力は道徳的に正統なものであると世俗国家によって正統化される
・いかにして世俗的暴力の克服は可能か
―アサド…提示せず
―テイラー…政治的知恵としての「赦し」の中に契機をみだす
=暴力の被害者が暴力で報復することを我慢、暴力の道徳的正統性を放棄
(マンデラの例)
しかし、この「赦し」による暴力の連鎖の断ち切りという構想そのものも暴力性を孕む
=誰が何を「赦す」のか、という問題
さらに、基本的に被害者は権力的に弱者であるという問題
―「赦し」が政治的知恵として働くのは両者が対等である必要
・暴力の克服の不可能性への自覚
=リベラルな世俗主義への根本的な疑義
→より少ない暴力でのデモクラシーへ=他者の多元的あり方を受容、排除しない
6.世俗主義とデモクラシー——コノリーとテイラー
・両者の共通項
=リベラルな世俗主義に内在する道徳的政治的「純粋性」への志向を批判
・コノリーの「深い多元主義」
=「生成の政治[2]」にという政治的現実に対応する政治的徳として「アゴーン的敬意[3]」と「批判的応答性[4]」を取り上げる
→これらがミクロポリティクスの実践を通じて深い多元性をデモクラシーに反映させる
・両者の違い
=上のコノリーの「深い多元主義」の考え方は類似
⇔全体性の観念に関して分岐
―コノリー…全体性とは差異を圧殺し同調圧力を生み出すもの=否定的
―テイラー…全体性とは差異を包摂する肯定的なもの
・テイラーのデモクラシー論と多元主義の関係
デモクラシーの「排除」という側面に注目→より排除の少ないデモクラシーへ
→①デモクラシーへのパトリア ②デモクラシーは開かれたものであるべき
・両者の議論の意義
=多元主義的デモクラシーにふさわしい政治的徳の涵養のためには何らかの非政治的な「信仰」が必要
―コノリーは差異の相互交流の中から発ち現れる生成の肯定性を、テイラーは全体性の中での差異の相補性を「信仰」している
彼らの「信仰」は「棲み分け」ではなく、時には痛みを伴う他者への積極的な関与を要求
―いかなる動機によってこの徳を涵養するのか
=「信仰」「希望」
⇒デモクラシーの正統性は自己帰還的に正統化されるかもしれないが、しかしそれが多元主義的な開かれたものであることをそれだけでは保障し得ない
むしろデモクラシーの論理から「形而上学」を取り除き、デモクラシーを純粋化する試みには不可避的に暴力性が刻印される
⇔一方で一定の限界も=「信仰」の限界
[1] 人々が新しい社会、教会、協働の形式へと駆り立てられ動員される時代。この時代において、アンシャンレジーム型期と異なり強固な国家と教会の結びつきは減退したが、それがなくなったわけではない。動員の時代においても①神のデザイン②教派主義的な結びつきは見られる。したがって、この動員の時代において「宗教的帰属は政治的アイデンティティの中心」である。
[2] これまで問題として存在していなかったものが、政治の地平に生成してくるというイメージ。例としてコノリーは安楽死の問題を挙げている。
[3] 「文化的な承認の登録簿にすでに場を確保している、相互依存的な政治的行為者」に関する政治的徳。自らのものとは異なる形而上学的・宗教的背景に対して敬意を払うこと。
[4] 慎重な傾聴と推定に基づく寛大さ。