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本の要約、メモ、書評など。

【要約】リチャード・E・エヴァンズ『第三帝国の歴史 第一巻——第三帝国の到来(下)』

リチャード・E・エヴァンズ『第三帝国の歴史 第一巻——第三帝国の到来(下)』(監)大木 毅 (訳)山本 孝二(2018、白水社) 

 

第三帝国の到来(上)』の続き。下巻となる本書は世界恐慌からヒトラーの政権掌握までを詳述。

一歩ずつ、徐々に徐々に、ナチスドイツが権力を掌握していく。次第にナチスへの道が決定的になり、ナチス以外の選択肢が一つづつ失われていく。
ナチスの人気を見誤り目先の危機よりも将来的なインフレの誘発を恐れ何もしなかったブリューニング、議会制民主主義を無視して社会民主党共産党を攻撃したパーペン、そしてパーペン派多数の内閣をつくることで旧政党による議会制の復活を防ぐことができると考えヒトラーを「利用」しようとした(=ヒトラーを首相に据え、ヒトラーを多数のパーペン派大臣でコントロールしようとした)ヒンデンブルク
彼らはナチスの脅威を完全に見誤り、ナチス独裁を回避できる最後のチャンスをみすみすと逃してしまったのだ。ヒトラーを首相に据えたパーペンは、ナチスの権力掌握を心配する友人にこう言ったというーー「ヒトラーは2ヶ月以内に、ずっと片隅に押しやられて、きいきいと悲鳴をあげるだろうさ」。「粗野で教育もなく政権運営の経験もないヒトラーはまったく容易にパーペンらにコントロールされるはず」であったのだ。

ヒトラー政権となると、ナチスに対抗できる集団が一つずつ潰されていく。警察と軍を掌握したナチスを止めるものはもはや誰もいなくなった。社会民主党ナチスの攻撃に対し、これを糾弾し憲法を遵守すると宣言するだけで、ただ受け身で理想を語るだけだった。共産党ナチス政権など一時的な勝利に過ぎないという幻想を抱き、ナチスに対して何の反応も示さなかった。この共産党の無為を深読みしたナチスは、共産党は大規模な革命を準備していると考えた。共産党員ルッべがライヒスタークに放火したことは、共産党にとって最悪の出来事だった。ナチス共産党を完膚なきまでに叩きのめす口実を手に入れた。共産党議員は全員ライヒスタークから追放され、全権委任法が成立した。
社会民主党共産党は生き残るためのチャンスを何度も見逃してしまった。1932年の最後の自由選挙ではナチ党の得票数を超えていたというのに、効果的な反抗もできずに暴力の中で崩壊していったのである。

 

 

第四章 権力掌握に向かって

第一節 大恐慌

 大恐慌によって職を失った人々は、自らの自尊心を打ち砕かれた。長引く不況のなかで、彼らはどうすることもできなくなり、ただ、何もできずに呆然とするしかなかった。かかる状況において、何もしないよりは「何かをする」ほうがましだと思い始めた。彼らはどうにか生計を立てようと、窃盗や物乞いに走った。ドイツ社会は徐々に悲惨と犯罪の泥沼に沈み込んでいったのだ。

 ドイツの経済回復はアメリカからの膨大な投資によってまかなわれていたから、そのアメリカが大恐慌に陥り、短期融資の回収に着手し始めたのが決定打だった。アメリカの銀行がドイツから資金を引きあげだすと、ドイツ経済は不安定化し、これを見たその他の資産保有者たちもアメリカに続き、ドイツ国外に資金を移すようになる。ドイツの工場は操業できなくなり、大銀行もあえぎだした。こうして、ドイツの三人に一人が失業者となった。

 共産党は、この状況を見逃さなかった。共産党は失業者の動員を試み、党員を三年で三倍にまで増やした。彼らは連日示威行動を続け、警察との衝突に明け暮れた。かかる事態の進展により、共産党社会民主党の亀裂は一層深まっていった。社会民主党は過激化する共産党に恐怖を覚えた。共産党はますます暴力的になり、「社会ファシスト」たる社会民主党に悪意を向けた。無学で筋骨たくましく本能的に革命を志向する——過激化する共産党中産階級の多くの人々は強い恐怖を覚えた。こうした「共産党の迫りくる恐怖」は、ナチスがドイツに突き付けていた脅威を、全く見えなくしてしまった。ブルジョワジーはおおむねナチスの側に共感していた。ナチスは権力を得た暁には資本主義を打倒するとかソヴィエトドイツを作り出すといった脅威を示してはいなかったのである。

 ナチスは「社会主義」的性格から距離を置くようになり、次第に保守右翼に接近した。国家国民党と同盟を結び、勢力を伸長しようとしていた彼らだったが、一方で大企業からは資金供給を受けることができず、結局は中小企業の献金によってその財源を賄っていた。彼らは徐々にではあったが、保守・国家エリートの間にも支持者を得るようになっていった。中産市民は徐々にナチス支持に傾きつつあった。

 

第二節 民主主義の危機

 社会民主党ミュラー大連合政権は、大恐慌を乗り越えることができなかった。この大連合自体、ヤング案合意のための政治的試みであったから、いったんヤング案が合意されてしまえば、彼らを結びつけるものは何もなかった。彼らは失業問題をめぐって完全に決裂し、政府は解散を余儀なくされた。これを好機と見たのがヒンデンブルクと軍であった。軍は次第にナチスに共感を示すようになっていた。ヒンデンブルクは大統領の緊急令を利用して、ミュラーの後継首相を指名した。ここにおいてもはやライヒスタークという民主的基盤は必要なかった。ライヒスタークを迂回して緊急令によって首相を指名することに成功したヒンデンブルクは、ブリューニングを首相に据えた。ブリューニングは、ライヒスタークの権限を縮小し、ライヒ首相とプロイセン州首相の職務を兼任し、それによって社会民主党を排除しようとした。民主的権利や市民的自由の制限にも手をかけ、報道の自由は危機にさらされた。

 ブリューニングはまず、不況に対処しなければならなかった。彼は徹底したデフレ策をとり、これによって国内の物価を下げ、国際市場で輸出競争力をつけることを望んだが、輸出業者の反対、世界的な需要の現状などを見るに、とても現実的ではなかった。デフレ策に取り掛かり失業手当の削減を始めたが、貧困は増大化し、ダナート銀行が破綻、信用崩壊が切迫するとともに、外国融資によるドイツ政府救済は絶対的に不可能となった。この時点で、ライヒスマルクはもはや外国通貨と交換できなくなったのである。

 こうした状況において、ブリューニングがやるべきことは通貨供給を拡大することしかなかったはずだが、インフレの誘発を恐れた彼はかかる措置をとらなかった。もうひとつ、最後のチャンスがあった。フーヴァー・モラトリアムにより賠償支払いは一時停止されたのである。ここにおいて、ブリューニングは増税などの措置をとることが可能になったのだ(これまではかかる措置は「賠償支払いのために我々から金を巻き上げるのか」と非難されがちだった)。だが、彼はもし経済が回復したらモラトリアムが終わってしまうのではないかということを恐れた。最後のチャンスにブリューニングは何もしなかったのである。

 ブリューニングは極右の急進主義を抑制しようと考えていたが、彼は彼らを過小評価していた。極右の伸長を招いたという点でも、ブリューニングは致命的であった。ブリューニングは社会民主党が協力の姿勢を見せなかったため、ヒンデンブルクの持つライヒスタークの解散権を行使させた。ライヒスタークは解散され、総選挙が行われる運びとなった。ブリューニングは、ナチスの人気を見誤っていた。ナチスが選挙で勝てるなど思ってもいなかったのだ。

 ナチスはこの選挙に可能な限りの努力を傾注した。ドイツの輝かしい過去をよみがえらせる新しい指導者というイメージを作り上げ、自身がヴァイマール共和国の対極にある存在であることを声高にアピールした。彼らはまた、当時のドイツ社会がそれぞれ独立した利益集団に分裂していたことを認識しており、そうした特定の集団に属する有権者に合わせて、自らのメッセージを仕立て上げた。反ユダヤ主義的主張も、効果があるところ以外では放棄してしまった。

 選挙の結果は衝撃的であった。社会民主党や中央党こそ大きな変動がなかったが、中道右派政党は壊滅的敗北を喫し、ナチスが640万票を獲得し107議席を取ったのである。ナチスに投票した人々は、これまでの支持基盤であった下層中産階級に留まらなかった。ホワイトカラー、中小企業経営者、農民、専門職、商工ブルジョワジーなど、社会の多様な層からの支持を得ることに成功したのだ。一方で、労働者の支持を集めることには失敗した。彼らは依然として社会民主党共産党に投票していたのであった。ナチスは、社会的な垣根を乗り越え、共通のイデオロギーを基盤として、相異なる社会集団を統合することに成功した。だが、ナチスは具体的な対策案を提供したわけではなく、有権者もただヴァイマール共和国の失政に抗議するためにナチスに票を投じたのであった。

 

第三節 暴力の勝利

 ナチスにおいて暴力が中心的役割を果たしたことは、ヴェッセルの例からも明らかであったが、彼らの暴力は共産党などとの間でひっきりなしに続いた。この治安悪化に対処せざるを得なかった警察は、徐々にヴァイマール民主主義への忠誠心をぐらつかせていた。彼らは元将校や元軍人であり、新共和国ではなく、抽象的概念としてのライヒに仕えていたのである。警察は共産党に憎悪を抱き、犯罪と革命をひとくくりにみなしていた。したがって、警察がナチスヴァイマール共和国攻撃に共鳴し始めていたとしても、何の不思議もない。

 だが、ナチスにも、相当な規模での革命を準備している証拠が見つかった。いわゆるボックスハイム文書の発見である。ヘッセンで警察が押収した文書から、突撃隊が暴力的な一揆を計画していたことが明らかになったのだ。尤もこの計画は上司の知らぬ間に書かれたものであって、ヒトラーなどの知るところではなかったのだが。これを受け、ブリューニングは政治組織の制服着用などでナチスの影響力削減を試みたが、全くの無駄であった。彼らは代わりに白いシャツを着ただけであった。共産党の勢力が後退気味になると、ブリューニングは突撃隊禁止に踏み切った。ヒンデンブルクに突撃隊非合法化の緊急令を出させ、警察はこれを受けドイツ中の突撃隊施設を強制捜査して、装備と記章を没収した。だがこれもまた、限定的な効果しかなかった。下級警察官のあいだにナチのシンパがいたため、彼らがナチに相当な範囲の行動を許してしまったのである。

 暴力は街頭のみならず、ライヒスタークにおいてもみられることとなった。左右両極の過激政党員らはシュプレヒコールや怒号をあげ、進行を妨害し、あらゆる法案を否決し続けた。ついに彼らはライヒスタークをボイコットするようになり、ライヒスタークは休会を余儀なくされた。もはやライヒスタークには尊厳も権力も何もなかった。政治権力は、もはやライヒスタークからヒンデンブルクの側近に、そして街頭へと移っていった。

 1932年があけると、ヒンデンブルク大統領の7年の任期が終わろうとしていた。ナチスヒンデンブルクの任期延長を拒否したため、大統領選挙が行われることとなった。この総選挙において、極右の伸長によって、ヒンデンブルクは相対的に左翼の候補者になってしまった。なんと、社会民主党ヒンデンブルク支持に回ったのである。選挙の結果は、絶対的にヒトラー有利であるとみられていたが、思ったほどに得票率を伸ばすことができなかった。ヒトラーはかろうじて30%の票しか得られず、ヒトラー、テールマン(共産党)、ヒンデンブルクの決選投票へと持ち越された。この二回目の決選投票で、ヒンデンブルクに敗れはしたものの、ヒトラーは37%の得票率をえて、「全ドイツの代表」としてのイメージを固めることに成功した。

 再選したヒンデンブルクは、新首相にパーペンを指名した。新内閣の閣僚のほとんどは政党人ではなく、パーペンとその仲間たちは、自らを政党を超越する新国家の創造者とみなし、複数政党制の原則にも反対した。彼らはブリューニング以上に、選挙で選ばれたライヒスタークの権力を制限しようとした。彼らは新政府の上のような方針を大衆に支持してもらうために、ナチスを味方につける必要があると考えた。彼らはナチスの突撃隊禁止解除の要求を呑み、ナチスを飼いならそうと考えていたのだ。

 だが、ナチスを飼いならそうという彼らの思惑は全くうまくいかなかった。街には突撃隊があふれかえり、共産党との衝突も激化した。ハンブルク共産党との大衝突が勃発したこともあったが、これをプロイセン州への介入契機と捉えたパーペンは突撃隊の再禁止などの措置をとらず、逆に社会民主党プロイセン州政府を罷免した。この事態は、連邦の原則を破る決定的な出来事であった。もはや議会制民主主義はどこか遠くへ行ってしまった。かわりに国家の全面的集権化が近づいてきたのだった。このパーペンのクーデタに、社会民主党労働組合もまったく抵抗することができなかった。両者の政治的敗北は明らかであった。ゲッペルスは「アカは大きなチャンスを見逃した。そんな好機は二度と再びめぐってはこないだろう」と記すこととなる。

 

第四節 運命的決断

 時はクーデタ前の選挙戦にさかのぼる。この選挙戦では、どの政党もナチスと同様の手法をとり、ナチスと同じ土俵に乗ってしまった。社会民主党、国旗団、労働組合ナチスに対抗するために「鋼鉄戦線」を結成したが、ここで用いられたレトリックや選挙戦略は、完全にナチスのそれと同じであった。だが彼らにはナチスに対抗するだけのダイナミズム、若々しい活力、過激性が欠けていた。結果、1932年のライヒスターク選挙で、ナチスは230議席を得て、社会民主党をほぼ100議席上回ることとなった。同時に、共産党も票を伸ばし、政治の両極化が進展した。中道諸政党はほぼ完全に消滅した。

 ナチスは同選挙において、多様な不満層の票を獲得した。中産階級プロテスタント、小政党支持者に特に訴求力があった。だが、他方で社会民主党や中央党に投票する層からの支持をほとんど得ることができなかった。ゆえに、ナチスは選挙結果を手放しに喜ぶことはできなかった。結果、ナチスは、議会を通じた権力掌握の限界を感じるようになっていくのである。

 とはいっても、ナチスライヒスタークの最大勢力となったわけで、ナチ党はヒトラーを首相とするように要求した。これに対してパーペンやヒンデンブルクは、皮肉にも、民主的に選出されたヒトラーを首相の座に置くことは議会制度の復活を呼び覚ましかねないと考え、反対していた。結局ナチスは入閣を果たせず、パーペンは内閣の大衆的基盤を失うこととなった。

 パーペン内閣は、ライヒスタークの開会直後に解散して大統領権限を利用する手に出たが、この戦略はゲーリングが故意に共産党の政府不信任案を許したことで失敗した。結果、11月に改めて総選挙が行われることとなった。ヒトラーはパーペンのかかる策略を激烈に攻撃する選挙戦略をとったが、これがよくなかった。中流階級の票を失ってしまったのである。ナチス議席数は共産党社会民主党議席数の合計に及ばなかったのである。

 共産党が躍進した結果、ライヒスタークは左右過激派が相対する困難な状況となった。両過激派は議会の場において議会制の破壊を主張し、パーペンも軍の信任を失い孤立していた状況において、パーペンには辞任する以外の選択肢がもはや残されていなかった。

 次の首相の選出は難航した。もはや首相の決定は議会に諮る必要がない状態となっていたが、だからといって独断的な首相の決定は内戦に火をつけかねなかった。結果、シュライヒャーが首相とならざるを得なかった。シュライヒャーはヒンデンブルクには嫌われていたが、中央党や社会民主党にはそこまで嫌われていなかったので、パーペン的な全体主義レトリックを避けて、なんとか態勢を立て直そうとした。さらに、ナチスが歩み寄ってくるかもしれないと希望を抱き続けた。

 ナチスは選挙運動に力を入れすぎた結果、事実上破産していた。ナチ党内でも、意見が割れており、「ヒトラーが首相になれないのなら一切の入閣を拒否する」という強固な態度を採ったことを批判する声が上がりだした。さらに、選挙戦での成功も衰えだし、選挙における「上昇の限界」に達していることは明らかなように見えた。

 こうした状況を好機と見たのがパーペンやヒンデンブルクであった。彼らはナチスを政権に引き入れ飼いならすことができると考えたのである。一方で、かかる措置が民主制・議会制の復活を加速させかねないとも考えており、経済の停滞が終わり、ナチスが今以上に退潮すれば、旧政党が復活する可能性(=脅威)があると考えたのである。

 ヒンデンブルクらは、上のような脅威に対処するため、もっと望ましい首相が必要であると考え、鉄兜団と協力しシュライヒャーを排除した。その後、ヒンデンブルクらはシュライヒャーの後任にヒトラーを据えた。彼らはヒトラーを首相にしながらも、パーペン派の保守派が多数を占める内閣を作ることで、ヒトラーを抑制することができると考えたのである。

 この内閣において、二つの官庁だけがナチスに割り当てられた。内務省(フリック)とプロイセン州内務大臣代行(ゲーリング)である。これによって、ドイツの大部分における警察権がゲーリングに与えられることとなった。あらゆる重要な案件に関して、ヒンデンブルクの信頼を得ていたパーペンの友人たちに囲まれ、粗野で教育もなく、政権運営の経験もないヒトラーナチスは、まったく容易にコントロールされるはずであった。パーペンは心配する友人にこう言った。「ヒトラーは二か月以内に、ずっと片隅に押しやられて、きいきいとひめいをあげるだろうさ」と。

 

第五章 第三帝国の創出

第一節 テロが始まる

 ヒトラーの首相就任が通常の政権交代ではなかったことは、すぐに明白であった。親衛隊が大仰な松明行列を組織する様子は、さながら「ドイツ型のローマ進軍」であった。ナチス共産党の取り締まりを行う可能性が大であることは皆、分かっていたはずだった。だが、共産党が広範な抗議行動をまとめることはなかった。なぜか。彼らは、真の敵はブルジョワジーの代表たるフーゲンベルクであって、ナチスは彼に懐柔された道具に過ぎないとみていたからである。他の人々は、これまでの政権同様、ナチス政権も短命に終わるに違いないと考えていた。

 だが、ナチスを懐柔したなどというパーペンらの確信は、すぐに間違いであることが明らかとなった。内務省を掌握したナチスは、ここから警察、軍へと影響力を拡大した。暴力に加担したものを取り締まる緊急令はヒトラーの突撃隊には適用されず、彼らを止めるものはもはや誰もいなくなった。

 彼らの攻撃は、社会民主党労働組合にも及んだ。だが、社会民主党は、これに対しただただ受け身で理想を語るだけだった。労働組合もこれに真っ向から反対しなかった。地方組合のストの計画を全国組合は躊躇したし(最悪の失業危機の中でストを打つのは困難だと考えた)、社会民主党は政府の弾圧の不当性を糾弾し自分たちは憲法と法律をかたく遵守すると宣言するだけだった。ナチスから新聞発行を禁じられた際も、社会民主党はただ最高裁判所にこれを訴えただけであった。だからといって、共産党と瀬戸際で民主主義を守るという点で共闘することもしなかった。社会民主党は合法的なアプローチをとることに固執し、ナチスを挑発して暴力を受けることを避けたのである。

 1933年3月の選挙戦でも、ナチス共産党社会民主党を攻撃した。ナチスは圧倒的な暴力で共産党を攻撃したが、これに対して共産党は何の反応を示さず、ナチスもこれにはただ首をかしげるばかりであった。共産党が比較的無為にとどまっていたことは、資本主義=新政権がもはや瀕死の状態であるとの確信を反映していた。ヒトラー政権など、大企業と独占資本がつかの間の勝利を得たにすぎず、その後ただちにボルシェヴィズムの勝利が続くだろうと宣言していたのである。したがって、共産党の無為はただの自己過信、致命的な幻想の産物だったのである。

 

第二節 ライヒスターク炎上

 だが、ナチスはこの共産党の無為を深読みし、共産党が秘密裏に全国的な蜂起を準備していると考えたのだ。ルッベは単なる共産党員の末端であったが、彼がライヒスタークを放火したことは、共産党にとって最悪の出来事であった。ルッベの放火のチャンスをナチスは見逃さなかった。共産党が国家への大規模な蜂起を行ったとして、ナチス共産党を完膚なきまでに叩きのめす口実を手に入れたのである。ヒトラーは緊急令を提出し、個人の自由、表現の自由、集会の自由などを制限することや政府が連邦を支配する権利を許した。こうして、恐るべき「ボリシェヴィキ革命」への攻撃は苛烈を極め、多くの党員が無残なやり方で殺されたのである。

 こうした状況下で行われた選挙は、自由選挙とは言い難く、圧倒的な暴力と威嚇に彩られていた。だが、ナチスは43.9%の票を確保したに過ぎなかった。半独裁状態にあってもなお、ナチス有権者過半数を勝ち取ることに完全に失敗したのである。共産党社会民主党は、有権者の三分の一を代表していた。だが、彼らは事実上、無抵抗のままで粉砕されてしまった。全国規模での攻撃を受け、彼らは収容所に連れていかれたのである。

 

第三節 破壊された民主主義

 ナチスを取り込むことができると考えていたパーペンらは、かかる事態に困惑した。これに対し、ナチスは彼らを安心させようと、ライヒスタークの開会の儀式に際し、プロイセンとのつながりを強調した。ここではヒトラーもきちんと身なりを整えた文官政治家として登場し、プロイセンの軍事的伝統の至上性を恭謙に認めた。だが、その二日後のライヒスタークでは今度は突撃隊の制服を着て、巨大な鉤十字の旗の下で、力強く全権委任法について語ったのであった。この法は、もはやライヒスタークも大統領も必要とせず、憲法から逸脱する法律を準備することを可能にするものであった。さらに、共産党議員を全員追放し、定足数を勝手に432人から378人に減らしてしまった。

それでも、ナチス過半数のために中央党の票を必要としていた。ヒトラーは全権委任法が教会の権利に抵触しないと保証し、さらに、学校における教会の権益を守るとの約束も繰り返した。しかし、その約束の結びには、これが否決された暁には中央党の未来はないだろうという明らかな脅迫であった。社会民主党も同じような脅迫に遭ったが、ヴェルス議長は穏健、妥協的な口調で全権委任法への反対演説を行った。だが、結果社会民主党以外の政党は全権委任法に賛成票を投じ、同法の発効が決定した。これによってライヒスタークはもはや、事実上不要なものとなったのである。

以降、ナチスは国内に残った有力勢力である①労働組合、②社会民主党、③中央党の排除に乗り出していく。

ナチス社会民主党弾圧が苛烈を極めるにつれ、労働組合社会民主党と距離を置くことで、ナチス新体制と折り合いをつけることを追求した。ゲッペルスメーデーの祝日化を決定すると、労働組合はこれを支持する声明を出した。メーデー当日、多くの労働者がナチス支持のメーデーに参加したが、彼らはナチスによって参加を強制されていたのであった。5月2日、突撃隊と親衛隊は労働組合事務所を襲撃し、あらゆる新聞・刊行物、金庫を押収した。労働組合の運営は、ナチ党工場細胞組織の手中に落ちた。

社会民主党はすでに動産・不動産を差し押さえられており、もはや政治運動としての社会民主党は終わりを迎えていた。それでもなお、社会民主党ライヒスタークにおいて政府支持をやめようとしなかった。だが、6月21日、ライヒスターク炎上緊急令を根拠に、全国に社会民主党の非合法化が命じられた。もはや社会民主党ライヒスタークに議席を占めることは許されなくなり、同党の会合、出版のすべてが禁止され、党籍を持つものは公職・公務員となることも不可能となった。

労働組合社会民主党も、生き残るためのチャンスを何度も見逃してしまったことが致命的であった。特にパーペンのクーデタにも効果的な反対行動を起こせなかったことは決定的であった。1932年11月の完全に自由なものとしては最後になった選挙において、社会民主党共産党は、その得票を合わせれば、ナチ党のそれを相当数超えていたというのに、両者とも暴力の饗宴のなかで崩壊していったのである。

 ナチスは、中央党に対しては、より慎重にことを進めた。ヒトラーは国民の大多数がキリスト教を信仰していることに気づいており、中央党を弾圧することでそのような信条と対立してしまうことなど望んでもいなかったのである。ゆえに、新政権はキリスト教信仰を堅持すると繰り返し主張した。中央党の側も、国家・公務員・政府の上級ポストに就いていたカトリック教徒が罷免されないように、現体制支持の声明を出した。さらに、カトリック系の学生組織は新体制への忠誠宣言を発表し、新聞はナチ宣伝機関誌に類するものとなった。党首のカースは、かかる状況の中で、教会の存続のために自党を犠牲にする方法を選んだ。ナチスとの交渉で、政教和約が締結された暁には中央党は存在を終える、ということに合意したのである。結果、政教和約が締結され、中央党の解散と、忠誠の対象をナチスに移すことが要求された。彼らはカトリック自治を継続し、ドイツの新秩序にカトリック教徒が参加するために拘束力のある保証を取り付けるという利益からすれば、党の解体などささいな犠牲であるとみなしたのである。

 他の諸政党の排除は、ずっと容易だった。国家党はもはや2議席を有しているだけの存在となっていたし、国家国民党は長年の連立パートナーであったが、ナチスからすれば今や不必要な仲間となっていた。同党のフーゲンベルク大臣もナチスの手によって辞任に追い込まれ、鉄兜団も突撃隊に組み込まれてしまったのである。

 

第四節 ドイツに隊伍を組ませる

 こうして有力な政治的敵対者の無力化に成功したナチスは、次の段階へと進んでいった。すなわち、「精神」の領域にである。まずナチスが目をつけたのは、売春、中絶、同性愛など、出生率の低下に与しているとみなされた団体/人々であった。ナチスはこれらを犯罪化し、出生率の増大に寄与しないものを全て罰するようになった。

  かかる攻撃は、人種主義的な発想をも助長した。福祉を圧迫するような人種的に劣った人々は断種されるべきだとの考えが広がった。弱者を支えるヴァイマル福祉国家は攻撃の対象となり、強者の再生産を目指すべきだとされた。こうして、弱者(これには貧困者も含まれた)であることは犯罪行為だとされていくのである。これらの者たちは保安拘留の下に置かれることとなった。

  ナチスの攻撃対象は政治的敵や周縁的存在、社会的弱者に限られたものではなかった。誰であれ、ナチスに反対するものは殴打、拷問、収監の対象となった。異を唱えたものにはテロが向けられ、ナチによる「同質化」が進められた。公務員、司法検察、経済団体、議会などの社会のあらゆる階層で同質化が進められ、そこからユダヤ人はパージされた。個人はナチ組織に属する時を除いては孤独となり、安心で唯一の形としてナチスの提供する日常の機械的なルーティンにしがみついたのである。

 

第六章 ヒトラー文化大革命

第一節 不協和音

 ヒトラーの攻撃は、ついに文化の領域にまで及んだ。反ナチ的な指揮者ブッシュのコンサートは公共の秩序を乱すとの理由で禁止され、音楽もまた「同質化」の標的となったことが明らかになった。ユダヤ人指揮者、歌手、音楽関係組織の理事は解雇させられ、あらゆる音楽団体がナチスに乗っ取られた。

  文化の「同質化」を推し進めるために、ナチスは国民啓蒙宣伝省を設立した。これによって、彼らは文化と知的生活のあらゆる側面を中央集権的に管理することを目指したのである。こうして彼らは「真のドイツ文化」に国民を回帰させようとしたのであったが、そのためにはジャズのような外国文化の排斥も含まれていた。

 

第二節 芸術の粛清

 文化の「同質化」は今や音楽に止まらなかった。映画の同質化のための国家映画院の設立、ラジオの全放送監督権の掌握、新聞・メディアの統制、レマルクやトマスマンといった著名な小説家への攻撃などが次々と推し進められた。 

 かかる文化への攻撃は、多くの芸術家の国外流出を招いた。その数はおよそ2000名にも及ぶとされる。彼らの市民権は剥奪され、国内にほとんど著名な芸術家は残っていなかった。

 

第三節 「非ドイツ的精神に反する」

 学問の世界においても、「同質化」は進められた。ユダヤ人教授は解職させられ、ドイツを離れた。一方で、多くの保守派の教授たちはドイツに残る選択をした。

  大学の同質化を推進したのは、とりわけ学生であった。彼らは反ナチ的な教授を執拗に攻撃し、仕事を妨害した。この学生らの運動の広がりは目を見張るもので、ナチ化した教育省や大学当局は学生による運動を取り締まり始めたのであった。

  1933年5月10日の「非ドイツ的精神への反対行動」と呼ばれた学生デモで学生運動の盛り上がりは頂点に達した。多くの反ナチ的な書物が薪に放り込まれ、徹底的に燃やされた。だが、この運動は中央によって巧みにコントロールされていたものでもあった。ナチス学生運動の騒動を自身のコントロール下に置くことになんとか成功したのである。

 これらの同質化の過程におけるユダヤ人への攻撃は、これまでのナチスの敵への攻撃とまったく異なっていた。彼らはユダヤ人を非ドイツ的精神の貯蔵庫とみなし、彼らの排除はドイツにゲルマン性を復興させる文化大革命の一部であると考えたのである。だが、ユダヤ人に対する暴力は、必ずしも計画的なものというわけではなかった(実際にヒトラーは「個人的な攻撃」をやめるよう求めたこともある)。かかる状況を受け、ナチスはこうした突撃隊などによる反ユダヤ感情の爆発のコントロールに取り掛かる。このために、ナチスユダヤ人商店のボイコットを組織的に実行し、反ユダヤ政策は中央で一本化され「理性的」に追求されねばならないと広く宣伝した。

 

第四節 「破壊の革命」か?

 こうして、あらゆる非ドイツ的なものが容赦なく弾圧される文化と精神の革命は途方もない速さで達成された。この革命が生起したのは二つの段階を経てであった。第一段階はヒトラーの首相指名である。この時点でドイツに残された選択肢はナチ独裁か軍事政権のみであった。ここからナチスが成功した根源は、全国的な保守政党の不在、自由主義の貧弱さ、敗戦とヴェルサイユ条約への遺恨などにあった。この状況において正統性を獲得できなかったヴァイマール共和国に代わり、旧帝国やビスマルクといった権威主義的指導への郷愁を煽ったのであった。

 ここにおいて、ナチ運動の主張する理念は少なくとも国民にとって拒否反応を引き起こすほどの慮外のものではなかった。ナチスイデオロギーは状況やアピール相手に合わせて翻案され、時には隠されていた。だが、ナチイデオロギー保守主義者や自由主義者イデオロギーと相当程度一致していたのである。